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第三章 答えあわせ 6-3
今一番、聞きたくなかったとすら思ってしまった。
声の聞こえた方角に顔を向ければ、呆然とした様子のミノリが視界に飛び込んできた。
「あ、ミノリ! 遅かったな、もう今日は来ないのかと思った!」
わずかに遅れて、トレーを持ったともちゃんが戻ってくる。その口ぶりは焦がれた待ち人を出迎えるそれだ。
レンズとカメラがかちりと噛み合うように、ひとつの推測が脳裏に浮かんだ瞬間、ショックのあまりに体が激しく戦慄いた。
「……謀ったんだな、二人して」
ミノリと俺を会わせるためだ。
偶然を装うふりをして、今日俺を『トレモロ』に呼びつけた。そう考えると、このあまりに出来すぎた状況の不自然さにも納得できる。
「帰る」
地を這うような声が出た。
「ちょっと待て、春輝!」
慌てたともちゃんがカウンター越しに距離を詰めてきた。
「いきなり帰らなくてもいいだろ。ミノリに会うのも久しぶりなんだし。な?」
「ともちゃん。お金、ここに置いとくから。お釣りはいい」
「コラ、話を聞きなさい! なんでそうおまえは一方通行なんだよ。自分の力で解決できるものはそんなに多くないんだぞ?」
「うるさい。もう俺はそうやって生きていくって決めたんだ、もう放っておいてくれ!」
「あ、春輝の頑固者! ちゃんと話し合え!」
ともちゃんの制止を振り切った。駆けるように立ち尽くしたミノリの横を通り過ぎ、店のドアを押し開く。
「待って、お願い!」
ミノリの切羽詰まった声が、俺の背中に投げつけられた。
嫌だ。待たない。駅に向かってひた走る俺を、ミノリがいつまでもつけてくる。
瞬く間に呼吸が乱れる。プレス機で肺が潰されたみたいに、平らな息を撒き散らした。食事や睡眠をサボっていたツケがここに来て回ってくるなんて。
「ねえ、本当に待ってよ、ハル!」
恐ろしいほどのスピードで近くなるミノリの声から、必死になって逃れていく。
繁華街に近いだけあって、一歩歩道に踏み出せばすぐに人に巻かれる形になる。
すれ違う人たちの怪訝な視線が突き刺さる。咄嗟に俺を避けたカップルは、不機嫌そうに小声で何事かを呟いた。
きっと今の俺は誰から見ても「ダメな子」に映っているだろう。
でもここで捕まれば、俺はもっとダメになる。
横断歩道が見えてくる。点滅か。赤になるまでに渡り切れれば、きっとミノリを撒ける。
悲鳴を上げる肺に、渾身の喝を入れた。大きく腕を振る。コンクリートを蹴りあげると、膝が笑ったようだった。
「頼むから止まれ!」
点滅が止んだ。寸前のところで、赤へ変わる。
掴まれた腕が、行かせるものか、と勢いよく後ろに引かれ、白線を踏みかけた右足がむなしく宙を漂ったのちに着地する。
「……ごめん」
息が乱れていてもなお、ミノリの声を律儀に拾う鼓膜が憎かった。
「謝るぐらいなら今すぐ離せよ」
「こっちを向いてくれるなら離す」
「嫌だ。向かない」
「ねえ、ハル……お願いだから……」
「向きたくない!」
強引に振り向かされた瞬間、瞳の表面に留まり続けていたものが事切れたようにこぼれ落ちた。一度落ちてしまえば、次から次へとあふれて止まらなかった。
「……泣いてるの」
わざわざ問うデリカシーのなさに腹を立て、涙を止めようと試みる。
しかし涙腺は完全に狂っていた。蛇口が壊れたように、ぽたぽたと顎の先から滴り落ちていくそれを拭う気にもなれやしない。
「なんで、泣くの」
「うるさい、こっち見るな。いいから帰れ」
「帰れない。ずっとハルに会いたかったのに、いまさら帰るわけないだろ」
こいつの前で張る意地は、風に揺られるアクセサリー程度にしかならない。
わかっていても、あまりに負った傷が多すぎて素直に寄りかかれるはずもなかった。
誰かのものになんて二度となりたくない。
なってなんかやるものか。誰かのものになろうとして、うまくなれなくて、俺はもうぼろぼろだ。
なのにミノリに会った途端、俺はミノリのものになろうとしている。再びなろうとして、なりたがって、それでも行き場のない手が空を掻いた。
悔しさのあまり、ミノリの肩を拳で殴りつける。力が上手く伝わらず、痛くも痒くもないものでしか殴れない。
再び殴ろうとしたら、今度はミノリの手で遮られた。来て、とそのまま引っ張るようにして雑居ビルの隙間へと誘導される。
排気口から出た湿気と、油の匂いがそこかしこに漂っている。奥深くまで連れ込まれ、ビルの窓から漏れるオレンジの光だけがミノリの存在を鮮明にした。
「騙すつもりはなかったんだ」
俺を壁に押しつけた状態で、ミノリが口火を切った。
「もう会わないほうがいいってわかってた。でもこのまま終わるのは耐えらんなくて……最後にどうしても話をしたいって、ともちゃんに相談しただけ。だからともちゃんはなにも悪くない、責めないであげてよ」
苦々しそうにミノリが目を細めた。鼻をすする。
またひとつ涙が頬を伝う。やがて唇に吸い込まれてくる涙の味は少しだけ海の味がする。
「ハルも、俺に会いたかった?」
俺を覗きこむヘーゼル色の瞳は、波打つように揺れていた。
「自惚れんな。俺は会いたくなんてなかったんだ……ミノリみたいに好きだとかなんだとかで簡単に片づけられないんだよ……」
「じゃあどうすればいい。俺はあとどれぐらいでハルに好きだと思ってもらえる?」
壁に手を縫いつけられた。痛いほどに。逃がさない、とミノリの力強い手が、皮膚一枚を隔てて語りかけてくるようだった。
「熱くなるなよ。おまえ、俺にこの前そう言っただろ? なんで俺なんかに必死になってんだよ、もっとほかに目を向けられるものがあるはずだ」
「ない」
「ミノリ」
「ないんだよ! ハル以外に熱くなれるものなんて俺にはもう残ってない!」
言葉を失った。初めて見る激昂したミノリの顔はあまりに美しく、だけどさみしげに歪んでいた。
そして、同情した。かわいそうだと思った。人を魅了してやまない男が、必死になって俺に孤独を訴えるなんてあんまりだ。
「……好きなんだ」
網膜を焼きつけるほどの熱がミノリの全身からほとばしり、触れ合う箇所を飛び越えて俺を焚きつける。
ファインダーを覗いているだけでは、きっとわからなかった。身に余るほどの情熱を、ミノリはこんなにも持て余している。
「本気なんだ。だから、俺から逃げないで。頼むから」
乾き始めた涙の道筋を、指の腹で拭われる。やさしい手つきのせいで肺が息つく暇もなく窮屈になって、今度はミノリの指まで涙で濡らしてしまった。
「俺はまっすぐに好きだっておまえに言ってやれない……もしかしたらずっと、言えないままかもしれないんだぞ……」
「いいよ、それでも」
「簡単に言うな。俺はおまえに嫉妬して、八つ当たりまでして、ひどいことしたって苦しんでるのに……」
「じゃあ、そのまま苦しんで。俺も今すげえ苦しいから」
だから一緒に苦しもうよ。
泣き笑うようなその表情に、心臓がどうにかなりそうだった。頬に添えられた手へ許しを与えるように擦り寄れば、ミノリの顔が近づいてくる。
触れる直前、動きが止まった。ためらうミノリの頭を無理やり抱き寄せ、自らキスをした。
舌を貪るたびに水音が漏れる。吐息が肌にぶつかって跳ね返ってくる。ぴたりと体を寄せ合いながら、かつて理想を語ったその口で、互いの余白を稚拙に埋めていく。
遊びも余裕もない。
本気の恋は、おもしろくない。
わかっていながらも、あまりに窮屈な世界の中、俺たちは瀕死寸前のようなキスを交わすことしかできなかった。
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