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第四章 潮騒とシャッター音 1-1
「明日は、どこに行く予定なの?」
十五時のコーヒーを手に窓辺に立っていると、荻野さんが俺の隣に立っていた。
「社長の息子さんと宮永さんがさっき話してた内容、ちょっと聞こえちゃって」
咄嗟に身構えたが、荻野さんは俺をたしなめるつもりはなさそうだ。
ぼやけた午後の光が事務所内へ差し込んでいる。その中に身を置くと、十一月だというのに体温だけがわずかに春へと戻るような心地よさがあって、つい長居してしまっていた。
「すみません。平日なのに連休もらってしまって」
「謝る必要なんて。この前、私が風邪ひいたとき、宮永さんにカバーしてもらったんだからお互い様。持ちつ持たれつ」
それで、どこ行くの。
荻野さんが追求してくるのはひどく珍しいことだった。
「そんなに気になりますか?」
「あら。私、警戒されてる?」
珍しさのあまり、声や態度に棘みたいなものが滲んでしまったかもしれない。慌てて首を横に振った。
「いえ、そういうんじゃないんですけど」
「言いたくないならいいから。でも最近の宮永さん、楽しそうで。どこかいいスポットがあるなら、私にも教えてほしかったの。だって孫と一緒にたくさん、いろんなところへお出かけしたいじゃない?」
荻野さんがほほ笑む。窓の外から子どもたちの甲高い声が響き渡る。今日もまた下校時刻がやってくる。
「一緒に行く相手には、サプライズだ、って言われました。だから俺もまだどこに行くか知らないんです」
「サプライズなんて、いいじゃない」
「そう、なんですかね。驚かせてどうするんだって思いますけど。予想できないことは、あまり得意じゃないんで」
「そうね、驚かせたいのは否定しないけど、でもそれ以上に宮永さんを楽しませたいんでしょう?」
荻野さんの言葉をじっくり溶かすように噛みしめる。
まだ、慣れない。
自分を大切にされるということが。大切にされると、自分を大切にしたくなるという自然な連鎖に、まだうまく馴染めない。
ただ、ごく最近まで続けていたあの身を削るような撮影はやめた。仕事終わりにどちらかの家で過ごすことが増え、追い立てられるように撮影へ繰り出すことができなくなった。
そうして失ったかわりに、得たものもある。
部屋は以前のような荒れ模様を描くこともなく、ソファーベッドの上で丸まるミノリの姿が、俺の生活の中にごく自然に根を張っている。これも俺にとっての予想外だった。
むず痒くなり、振り切るように「あの」と荻野さんに話しかける。
「お土産、買ってきますね」
そう言うと、荻野さんは「お気を遣わずに」とふんわり会釈して席に戻っていく。
胸の奥が甘く疼いて、こんなにも仕事がはかどらない午後は初めてのことだった。
*
定時を少し過ぎたところでタイムカードを切る。
帰宅後、着替えを終えてから、一泊分の荷物を引っ提げてミノリの家へと向かう。
今日はこのままミノリの家に泊まる。
そして明日は、前々からミノリが行きたがっていた、撮影を兼ねた日帰り旅行だ。
比較的有休の取りやすい環境にいる俺が予定を合わせてやるべきだろうと、平日に休みを取る形で今回は落ち着いた。
毎週末が休みの俺とは違い、土曜、下手すれば日曜だってミノリは仕事で潰れてしまう。
最寄り駅で降りると、俺は早速ドラッグストアに立ち寄った。
目的の品である歯ブラシを一本、手に取る。
歩き出した先でコーナーの奥で、ふと避妊具のパッケージが見えた。
普段なら特別意識はしない。
でも今日は少しだけ、特別な日だ。
そう思った瞬間、かつての夜野さんの視線が心臓をひやりとさせる。
わずかばかり棚から離れたところで、足が竦んだようにどうしても動けなくなった。
体は、まだ繋げてない。
そもそもミノリの家に泊まること自体、今日が初めてだ。
なし崩しのように二人で過ごす時間は増えた。キスだってする。だけど、いつもそれで終わる。
そういう空気にならないようにわざとミノリが避けていることは、一緒に過ごす時間が長くなればなるほど空気でわかるというものだった。
このまま付き合っていけば、自然とするのかもしれない。
でも、しないかもしれない。
それに、こういうのは二人で足踏みをそろえていかなきゃいけないものだ。
俺ひとりがこんなところで思い悩むことほど、無駄な時間はないだろう。
「すみません」
突然小さく声をかけられ、ハッとする。
落ちた視線を持ち上げればそこには若い女性がいた。どうやら女性の取りたい商品の前で、俺がぼうっと突っ立っていたらしい。
こちらこそ申し訳ない気持ちになりながら、手の甲で脂汗をぬぐい、その場を離れた。
結局歯ブラシだけを買い、ちょうど自動ドアをくぐったタイミングでミノリからメッセージが届く。
――今どこ?
駅近くのドラッグストアにいる旨を伝えると、すぐにまた返信がある。
――そこで待ってて。
それからあまり時が経たないうちにミノリが現れた。
仕事で使っただろう重たげなカメラバッグを肩から下げてもなお、野暮ったさがないのはスタイルのよさが成せる技なんだろうか。
俺を見るなり、ほっとしたように笑ってミノリが近づいてくる。
「なに買ったの?」
「歯ブラシ。泊まるとき用の。家に置かせてもらえると助かる」
「それはいいけど、わざわざ買わなくても俺の家にストックあったのに。なんかこだわりあるんだっけ?」
「いや、特にないけど」
「だったら遠慮なく言ってよ」
不満そうに唇を尖らせるミノリに、次はそうする、と気のない台詞を吐いて背中を叩いた。
マンションに向けて歩き出す。
「でもよかった。家の前で待たせなくて済んで」
「待つなら待つで、マンガ喫茶で時間潰そうと思ってた」
「そこまでしなくても。ねえ、やっぱり合鍵持とう?」
ミノリが俺の前に回りこんでくる。期待に満ちた目。合鍵のくだりは、数日前に会ったときもしたばかりだった。
「いらないって言っただろ。そう簡単に他人に預けるようなものでもないんだから」
「ハルの気持ちとしてはそうなんだろうけど。でも俺がハルに渡したいんだよ」
熱っぽい目線を前に、思わず言い淀む。
ミノリのやりたいことならいくらでも付き合ってやりたい気持ちはあるが、こればかりは違う。
俺のために、ミノリは頑なになっている。
戸惑いが隠せない。
求められて、応える。そんな単純な応酬をあの人は「贋作」を生み出すために長く利用して、俺は「自分」らしくいることが怖くなった。
そしてミノリが俺に求めてくるものは、俺が「贋作」として応えてきたものよりもっと純粋で、頭の芯が溶けてしまいそうなほど熱い。
だから、余計に拒みたくなる。経験がないものに人は大胆にはなれないし、用心に用心を重ねてしまうのは昔からだ。
「鍵は、まだもらえない」
わずかに顔を曇らせながら、肩から落ちかけたカメラバッグをミノリがかけ直した。
ミノリの動作に合わせて、どこからか金属音が鳴る。まるでミノリの家の鍵が泣いているようにも思えて、居た堪れない気分になる。
「そっか、ダメかあ」
「でも明日までの俺の時間は、全部おまえにやるから。今はそれで我慢して」
するとミノリは俺から目を逸らすなり、はあ、とため息をついた。
「ずるい」
吐息をふんだんに混ぜたミノリの呟きは、冬の気配を織り交ぜた夜風に乗って俺のもとへ届く。
ずるいよ、ハル。
「……こんなの、舞い上がりたくなる」
ミノリはしばらく、熱心に、そして恍惚としながら俺を見ていた。冷えた肌がちりちりと焼ける気がした。
ほんのりとミノリの鼻の頭が赤い。初冬を迎えた夜がいつも以上に冷え込んでいるせいだろう。
――撮りたい。
この瞬間を、寒さと俺に翻弄されているミノリを、フレームの中に閉じ込めたい。
でもさすがに店の前でカメラを取り出すのはあまりに人の目につきすぎる、と理性が打ち勝つ。
「ほら、もう行くぞ」
「はーい」
背を向けて歩き出す。あっという間に長い足で俺に追いついて、ミノリが俺と肩を並べる。
歩幅を合わせてくれている。
それだけのことで、喉の奥にやわらかな真綿を詰め込んだような苦しさに襲われた。
火を灯したように、体が温度を上げる。その原因を生み出す男に少しだけ腹が立って肘で軽く小突けば、すぐに頭を撫で返された。
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