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第四章 潮騒とシャッター音 2-1

 シャワーを借り、寝支度を整えて部屋に戻ると、ミノリはパソコンデスクの前にいた。カードリーダーにSDカードを差しているところを見ると、どうやら写真データの取り込み中らしい。  そっと近づき、画面を覗き込む。俺の知らないたくさんの写真が、まばたきの速度で増えていくのを黙ってみていると、不意に腰を抱き寄せられた。 「シャワー終わった?」 「うん。というか、まだ寝ないのか?」 「残りはこれだけだから、やっちゃいたくて。せっかく撮りにいくなら、カードの中身空っぽにしておきたいし」  先に寝る? 椅子に座った状態のミノリが見上げてくる。いつもは見上げるばかりだからこそ、この新鮮な状況をもう少し楽しみたいと欲が湧く。 「俺も少し、起きてる」  ふるふると頭を揺らせば、ミノリが使うシャンプーの香りが一気に匂い立って心臓がざわついた。 「なあ。これ、いつ撮ったんだ?」  画面を指差せば、ミノリは頭を捻った。 「いつだったかなあ。なんか覚えてないんだよね。カメラバッグの整理してたら、底の方からポロっと出てきたカードだし。ここ数年、仕事以外で撮ることもほとんどなかったから……」  言葉の続きを待ったが、いつまで経っても流れてこない。口を閉ざしたまま、物思いに耽るようにミノリはモニターをぼんやりとした表情で見つめている。  本当に撮った記憶がないのか。もしくはそれすらも思い出せないほど、遠い昔に撮ったデータなのか。  どちらにしても今のミノリからは『UTSUGI.M』の断片すら上手く見出せない。見えたかと思えば、次の瞬間には儚く消える、持続性のない光。 『UTSUGI.M』を失うまでに多くの葛藤や事情があったことは薄々察している。  しかし俺といることで。そして撮影旅行なんてしてみたところで、本当にミノリが撮れるようになる保証はない。ここまで距離を縮めても、まだ出口は見えないままだ。 「あ、そうだ」  ミノリがやけに明るく言った。 「よかったら俺の作業が終わるまでエアダスターでも使う? カメラのメンテでもすればいいよ。俺の写真見てるのも暇でしょ」  ああ、これは追い出されたな、と思う。  どんな精神状態で撮ったかもわからないものを、俺に見られたくないんだろう。  自分の撮った写真をあっさり切り捨てていたときと比べれば、自意識を持った今の状態のほうが人として真っ当な気もする。  ただ、これをいい兆候と言えるのかどうかは、医者じゃない俺にはさっぱりだった。  ミノリの写真ならどんなものでも見たいのが本音だが、おとなしくエアダスターを借りて、床の上で自分の一眼レフとレンズを広げた。 「ハルって、カメラ二台持ちだったよね?」  レンズについたほこりをスプレー缶から噴射した風で吹き飛ばしていると、ミノリがパソコンに体を向けたまま話しかけてくる。 「そうだけど」 「もう一台はいつ買ったの」 「前にいたスタジオを辞めてすぐ」 「退職金で?」 「出なかったよ、そんなもん。あのころはもう正常な判断ができてなかったんだろうな。むしゃくしゃした気持ちで大金はたいてハイエンドモデルを買って……でもしばらく箱の中で眠らせてた」 「すげえもったいないね」  ミノリの肩がおかしそうに揺れている。そうだよ、もったいなかったんだよ。俺もまたミノリの軽やかを見習って鼻先を鳴らした。 「そういうミノリはどうなんだよ」 「俺は三台。仕事用と、プライベート用。もう一台は、フォトコンの受賞記念だから、っておばあちゃんといっしょに選んで買ってもらったやつ」 「へえ、思い出の品か」 「でももうずっとその一台だけ調子悪いんだよね。修理に出してはみるけど、またすぐにオートフォーカスが効かなくなる。おばあちゃんからもらったものはあんまり捨てたくないんだけど……よし、終わった」  パソコンの電源を落とし、ミノリがベッドに勢いをつけて横たわる。うつ伏せのまま、顔だけを俺に向けながらミノリが満面の笑みを浮かべた。 「ハルが今日初めてここに泊まるから、ちゃんときれいにしておいたんだけど、気付いてる?」  レンズを専用のフロスで磨いていく間も、ミノリはずっと俺に視線を投げかける。 「ちゃんと気付いてるよ」  一時期の部屋の荒れ具合を知っているからこそ、あまりにきれいで委縮しそうになるレベルだ。物はあるべきところに収まり、雑誌はパソコンデスクの片隅に立てかけるようにして並んでいる。  ザッと見まわしても目立つほこりやごみだってない。 「掃除機もかけたし」  ミノリが歌うように続けた。 「うん」 「ちゃんとシーツも洗濯した」 「うん、えらいな」 「ねえ、ハル」 「ん?」 「もう少し、かかる?」  ぽん、ぽん。ミノリが布団をやさしく叩く。自然とその意図を汲んでしまい、苦笑するしかなかった。 「もうちょっと待て」 「えー」 「おまえが言ったんだろ。メンテしてろって」 「それはそうだけどさあ」  やっぱりハルがそばにいないとさみしい。  ため息をつきながら、ミノリがぐるりと体を反転させた。湿った髪がシーツの上に散らばる。寝るときはあのオニキスのピアスを外すのだと、今更ながらに知ってしまう。  不満そうに天井を眺める横顔の美しいライン。そこから繋がるしっかりとした首筋。Tシャツの隙間から覗く、浅く浮き出た鎖骨。  普段なら意識の外に留めておけるものたちが、やけに艶かしく映る。そして何度だって痛感する。  恋は理性を脅かす。ときには吐き気を覚えるほどに。  気づけば俺はレンズを本体に取り付け、浅ましく口を開いていた。 「なあ、撮っていい?」 「ここで?」 「できるなら、今がいい」

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