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第四章 潮騒とシャッター音 2-2

 しばらくミノリは思い巡らせた。どうしようかなあ、と余裕を思わせる口ぶりでこちらを翻弄するくせに、目はいつまでも俺を追いかけてくる。 「焦らすなよ」  苦言を呈しても、動じる気配はない。返事を待つ間にも、シャッターボタンに添えた人さし指がじりじりと焼きつく。 「焦らしたくもなるでしょ。前にも言わなかったっけ、ハルのその目が好きだって。俺を撮りたくてたまらないんだろうな、ってわかるから。ずっと見ていられる」 「……わかった、もういい。撮らない」 「あ、ごめん。恥ずかしくなっちゃった?」  そんなとこもかわいいけど。ミノリが口角をにやりと持ち上げた。 「いいよ、ハル。撮って」  簡素な許可。それだけでじわりと体が熱で浮く。  カメラを構え、片目でファインダーを覗いた。  聞き慣れたシャッター音が響いて、しかしそれはいつもの心地よさを通り越し、恐れ慄くほどの快感を俺に与えた。  暗さが気になる。露出をいじってまた一枚。  近いってば、と苦笑するミノリのクレームには聞こえないふりをして、いたずらに数を重ねていく。  撮っても、撮っても、なぜか渇きが治まらない。  やみくもに撮って、自分を削っていたころとは違う。あのときほどの苦しさや焦りはなく、むしろ気持ちはもっとずっとゆるやかに昂揚し続けているのに、どうしても満たされない。  一枚たりとも消したくない、と思う。  だけどもっと。俺の知らないところがあるなら、それも全部。  俺だけのものに、できるなら。 「ハル?」  ミノリの体の上に跨った。膝立ちになり、真上から見下ろしながらフレームに収めていく。  息を詰め、手ブレを抑えながら一枚分のシャッターを下ろす。次の瞬間には、ファインダーの中にいるミノリが煽るように笑う。 「すげえいい眺めかも」  被写界深度が研ぎ澄まされていくように、一瞬にして視界が開ける。  写真、そしてミノリ。ピントが等しく対象に注がれることで、曖昧だった境界が鮮明になっていく。  そうだ。俺はミノリを撮りたいんじゃない。ミノリが欲しいから、撮りたくてたまらなくなる。  心臓を掻きむしりたくなるほどレンズの隔たりがもどかしくて、もう指が動かない。  眼前からカメラをそっと下ろし、床へ置く。  肉眼でミノリを見つめるだけで全身の感覚が鋭くなり、体を舐め回されているような気さえして、畏怖とはまた違う震えが俺を襲った。 「ハル」  名前を呼ばれただけだ。でも腰が砕けそうになる。  踏ん張りが効かない。体勢を崩し、前のめりになった俺の頭をミノリが抱き寄せてくる。 「キス、しよっか」  うなずけば、当然のものとして唇が重なった。  珍しくミノリは受け身だった。試しにわざと離れてみたが、追ってこない。  焚きつけておきながら、そうくるのか。こちらの心積もりを図ろうとする斜に構えた態度に、無性に腹が立った。  そっちがその気なら構うものか、とTシャツの襟ぐりを思いきり手繰り寄せ、強引に舌をねじ込む。ろくに反応のないミノリの舌を相手取り、懸命に絡ませていると、途端頬の上で吐息が跳ねた。ミノリが笑ったのだと知ったのは、腕をすくわれた後のことだ。  世界が一変する。  ミノリに組み敷かれながら、情欲を滲ませて潤む瞳に見下ろされると、呼吸をすることすら忘れそうになる。 「好きだよ、ハル。やっぱり、めちゃくちゃ好き」  軽やかなキスを二度、三度。そうやって油断を誘い、気を許したところで唇に噛みつかれた。  ぴりっとした痛みを覚える。これ以上強くされたら、きっともっと痛い。なのに不思議と気持ちがいい。  とろけた息が漏れる。それを押し戻すように、唇の隙間から舌が侵入してくる。さっき俺が入れたときにはろくに構ってくれなかった肉片が、今度はこちらの粘膜を丁寧に舐めまわしていく。  腰がその先を望んではしたなく揺れた。ミノリの硬く膨らんだ下腹部とぶつかり合うと、心臓が一際大きく揺さぶられる。  こんなにも誰かを強く求める自分が愚かで、ふしだらでも、大切にしてやりたいと本気で思ってしまうのはいけないことなんだろうか。 「ミノリ」  キスの合間に名前を呼んだ。  ぷくりと浮かび上がる気泡のように欲情に濡れた息を吐き出すと、少しだけ体が楽になる。楽になった分だけ今度は急速に物足りなくなって、ミノリの首に腕を回して縋りついた。 「しよう」  すると、ミノリはぴたりと動きを止めた。夢中になって求めあっていたのが、まるで嘘のように。  昂ぶりを鎮めようとしているのか、深く息をしながらミノリは俺を至近距離で見つめている。 「……したくない、のか」  焦れてしまうせいで、やけに声が鋭利になった。  ミノリが頭を横に振る。 「したいけど、したくない」 「なんで」 「これ以上踏み込むのが怖い」  怖くて、たまんない。  掠れた声で、ミノリが続けた。 「そういう雰囲気になると、いつもハルはどこか怯えてるから」  頭を鈍器で殴られたような気がした。  俺はミノリのことを甘く見ていたのかもしれない。  アンテナのように世界の機微を拾い上げるこいつが、俺の体の変化に気づかないわけがなかった。  気づかれないのをいいことに、ミノリと向き合うことを避け続けてしまったツケが回ってきている。  あの人のことを話すならきっと今だろう。  そう思いはするものの、口は固く閉ざしてこの場を無難にやり過ごそうとしている自分がいる。 「無理に聞こうとは思ってないから」  ミノリはぎこちなく笑い、すっと目を伏せた。  「ハルのことは大切にしたいんだよ。できないならできないで、お互いが納得できる落とし所を探っていけばいいって思う」  俺の頭をひと撫ですると、ミノリはベッドに寝転がった。  もう表情はわからない。二本の腕がミノリの顔を完全に覆い隠している。 「本当にそれでいいのか、ミノリは」 「いいよ。ハルを傷つけるよりはよっぽどいい」  きっぱりと言い切られてしまうと、これ以上打つ手がないようにすら思う。  ミノリの主張を呑んでやるのが、互いに痛手を負わずに済む、現状の最善なんだと頭では理解できる。  でも、本当に?  ――お互い演じてる方が楽でしょ?  初めて会った日、ミノリはそう言った。彼氏ごっこを楽しむというより、あれは明確な線引きをするための言葉だったと今ならわかる。  踏み込むことを怖がりながら、踏み込まれることもミノリは怖がっている。  しかしいつまでも二人で怯えていたら、膨らみきったこの熱はどこにもたどり着けない。死ぬまでずっと迷子のままだ。 「ハル、来て」  いつしかミノリは腕をほどき、俺のほうへと体を向けていた。  両腕を広げる。それからもう一度「来て」と重ねる。決して命令なんかじゃなく、真っ暗だった心の道筋を照らすようなやわらかな声色で。  腕の輪の中にすっぽりと収まる。目線を上げると、ミノリは久しぶりに素直な笑顔をこぼした。  耳たぶに浮かんだピアスホールに触れてみる。クレーターのような小さな凹み。くすぐったい、と言われたが手は止めなかった。  いつもあるオニキスの粒がないだけで、わずかなもの寂しさを覚える。  もしこれがピアスじゃなく、ミノリなら。ミノリが俺の前からいなくなったら、もっとずっと寂しくて、苦しい。  大切にされたいなら、大切にしないと。  そう何度も念じながら、俺はきつくまぶたを閉じた。

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