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第四章 潮騒とシャッター音 2-1

 ミノリの部屋に泊まった翌朝「ちょっと出かけてくる」と外に出たミノリは、青色のレンタカーとともに帰ってきた。 「免許持ってたんだな」 「仕事でも乗るしね。一応運転技術はうちのオーナーのお墨付き」 「へえ、やるな」 「そうだ。ハルはどっち飲む?」  運転席から掲げられたのは、コンビニで調達してきたらしいホットドリンクだ。  本格的な冬の訪れはまだ少し先になるだろうが、それでも太陽が昇り始めたばかりの街は、俺たちから確実に体温を奪って、現に手先はひんやりとしている。 「中身なに?」 「ホットコーヒーとカフェオレ。それともアイスコーヒーのほうがよかった?」 「買ってきてくれただけで充分。ありがと」  ミノリからホットコーヒーを受け取り、ひと口含んでから車内のドリンクホルダーに置いた。  ほかにもいろいろと買い込んできたらしい。朝食用のパンやおにぎり、ガムやグミやのど飴、バラエティ豊かなものたちがレジ袋に詰まっている。 「これはおまえ専用だろ?」  いちご味のチョコレートを発見して取り出すと、え、とミノリは目を見張った。 「なんでわかったの」 「ミノリだって俺がわざわざアイスコーヒー好きだって言わなくても気づいただろ」 「俺は、ほら、ずっとハルのこと見てたから」 「そういうことだよ」 「え?」 「俺だってそういうことなんだよ」  ミノリが大きくため息をつく。ハンドルに額を押しつけ、ひどく脱力しているようにも思えた。  どうした、と声をかければ、またため息がひとつ。 「不意打ち喰らったかも」 「は? 不意打ち?」 「ねえハル。好きだよ、すごく」  ハンドルにもたれかかったままミノリが言う。  その顔はまさに真剣そのもので、座席の形が変わってしまったようにいきなり座り心地が悪くなる。 「知ってる。おまえが何度も言うから」 「俺、ハルが思ってる以上に本気だし真剣なんだよ。だからあんまりかわいいこと言わないで。今すぐドライブやめて、ベッドに連れ戻したくなるし」  それでもいい、と勢いのまま言えたらよかった。でも現実はチョコレートみたいに甘くない。  ――そういう雰囲気になると、いつもハルはどこか怯えてる。  昨夜のミノリとのやりとりが、薄い闇の奥からよみがえる。それから、打ち消すように心の中で唱える。  大切にされたいなら、大切にしないと。 「よし、じゃあ行こっか」  ミノリがエンジンをかける。フロントパネルにさまざまな色の光が点灯し、車全体が唸り声をあげる。  縦に長い体躯を車内でじっくりと伸ばしてから、今度こそミノリはハンドルを握り、アクセルを踏んだ。  車内に暖房が行き渡って足先が暖まってきたころ、車は高速に乗った。  目的地を何度か聞いてみたものの、そのうちわかるよ、とミノリははぐらかすばかりだ。  防音壁の向こうでは、まだ眠たげな街並みが流れていく。ビルの隙間を縫うように射してきた光がフロントガラスを白く照らす。  全身がぽかぽかとしたぬくもりに包まれる中、ミノリの鼻歌に時折耳を澄ませた。  ドライブに適したノリのいいポップス。ミノリの声質によく似合っている。  サプライズも悪いことばかりじゃないのかもな。  らしくないことを思いながら、ぬるくなったコーヒーを飲んだ。その苦味は甘ったるくなりすぎる今の自分にちょうどいい。  ふと見た窓の奥ではあれほど窮屈だったビル群がいつしかほどけて、いつもの街を抜け出していた。  一時間以上車を走らせ、俺たちは休憩を取った。  サービスエリアの駐車場の一角で、ミノリがエンジンを切る。さっきまで音にあふれていた車内が急激に静まりかえり、底冷えの空気が足元にすり寄ってくる。 「お腹空いてる?」  後部座席に投げ出されていたカメラバッグを引き寄せながら、ミノリが明るく訊ねてきた。  首を横に振る。昼というにはまだ少し早い時間帯だった。 「じゃあご飯はもうちょっと先まで我慢して。笹川におすすめのカフェを教えてもらったから、今日はそこで食べよう」 「ああ、笹川ってあのスタジオの後輩の」 「そう。あいつ、彼女がいて休みのたびに遠出してるっぽいから店にも詳しいんだよね。聞けばすぐに候補を出してくれるし、お店のアカウントとかもガンガン投げてくる」 「やさしいんだな」 「ちょっと口は軽いけど。あ、そういえば『レンタル彼氏』のホームページに載ってる写真も、あいつに撮ってもらったんだよ。このカメラで」  ミノリがバッグから取り出した一眼レフを目の高さまで掲げた。  ミノリの宣材写真が、ふと記憶の中からよみがえる。  ほかの誰とも違う、光を完璧に捉え切ったポートレートだったことを覚えている。 「三脚立てて自分で撮るのもおもしろくないし、協力してくれるっていうからまだ入社して一か月の笹川を捕まえてさ。でもそのときの笹川、ガチガチに緊張しちゃって、全然俺に指示してくれなかったんだよなあ」 「それはそうだろ。新人に無茶振りしすぎだ」  ミノリは「だよね」と反省する様子を見せた。 「でも結局、あの写真ってセルフプロデュースしたようなものなんだよ。この角度からこう撮ってほしいって笹川にお願いして。笑顔の写真にしてくれって店からは頼まれてたけど、どうしても笑う気になれなかった」  ハルの前でならいくらでも笑えるのにね。  俺の顔を見つめながら寂しそうに笑みをこぼし、ガラスの向こう側を眺める。  平日だというのに人々や車が途切れることなく行き交っている。男女の若い二人組、ツーリング中の集団に、愛犬を連れた壮年の夫婦。見かけだけでは、どんな理由でここにいるのかなんてなにひとつわからない。  それは『レンタル彼氏』に籍を置くミノリ自身にも当てはまることだ。  写真の在り方に正解はない。  思い出作りのため。金稼ぎのため。どれも正しい利用法だ。  ときには真実を覆い隠す、虚構として。事情や生い立ち、傷、複雑なものを全て飲み込んで、SNSの楽園を演出するのにも役に立つだろう。  でも、ミノリはそうじゃない気がした。  ミノリが『UTSUGI.M』だったころの気持ちを今も抱えているのだとしたら。  見過ごすほどの小さな幸福さえ愛そうとする人間が、誠実じゃないなんてありえない。  自分が残していく写真に、ミノリは嘘をつきたくないだけなんじゃないか、本当は。 「なあ。ミノリ」 「ん?」 「なんで『レンタル彼氏』をやろうと思ったんだ。笹川さんに頼んでまで」  写真一本では、ダメだったのか。いや、どうしてもダメな理由があったんじゃないのか、こいつは。  ミノリは俺を見なかった。見ないまま、うん、と独り言のようなぼやけた相槌をくれる。うん、なんでなんだろうね。 「ねえ。ハルは、辞めてほしい?」 「え」 「ハルが辞めてくれって願うなら、今すぐ辞めてもいい」  本気で言っているんだろうか。  ミノリの腹の底を探ろうとして沈黙が訪れた車内に、軽快な受信音が流れた。俺のスマホの音じゃない。  相手は、ミノリの知り合いなのかもしれない。でももしかしたら、ミノリを『彼氏』として求める誰かなのかもしれない。  俺が必要とした以上に、ミノリを必要とする人が、返事をずっと待っているのかもしれない。 「それぐらい、自分で決めろ」  長い沈黙を乗り越え、できるだけ平坦に告げた。 「真面目なハルなら、そう言うと思った」  苦笑したミノリの顔が、窓ガラスに映り込んだ。  それから、ひと歩きしようと二人でカメラを持って、サービスエリアを歩いた。  売店の出入り口に設置された、コーヒースタンドタイプの自販機でホットコーヒーのボタンを押す。  カフェインの摂りすぎ注意、とミノリにすかさず指摘される。 「いいだろ、これぐらい」 「俺、ハルには長生きしてほしいんだけどな」 「なんで」 「おじいちゃんになったハルも撮ってみたいよ」  自販機の小窓が開く。できあがりの合図だ。手でそっと握れば、指先が焼きつくほどカップは熱かった。 「しわだらけになった俺じゃなくて、そのときはもっといいモデルを探せよ」 「嫌だ。ハルのことは、死ぬまで撮り続けたいって思う」  ミノリの鋭く、揺るぎのない視線が、俺を射抜く。 「俺、ハルが撮ることを許してくれるたび少しずつ楽になってる。世界が今の俺を許してくれてるような感覚になる」  いいからほら。早く撮らせて。ミノリに腕をぐいぐいと引っ張られ、忙しなく店を後にした。

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