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第四章 潮騒とシャッター音 2-3
笹川さんおすすめというカフェは、ビーチから歩いて十分ほどの距離にあった。海に面したテラス席も充実していて、もう少し暖かければと悔やまれる。
ランチタイムも下り坂に差しかかっていたこともあって、ゆったりとした空気の中でホットサンドを頬張る。すると咀嚼中にも関わらず、ミノリが何度もシャッターを切ってきた。
ため息をつきながらも、潔く諦める。
ミノリが撮れるならそれでいい。今日の旅の目的はそこにある。
「笹川さんに感謝しないとな。あの店のホットサンド美味かった」
「スタジオで会ったらちゃんと伝えておく」
満たされたお腹を抱えながら、二人で砂浜を歩く。
まだ昼下がりだというのにすでに日差しの勢いが弱まり、夕刻の端を引き伸ばしたような空模様だ。
潮風が心の隙間を通り抜け、人恋しさについミノリを求めて視線がさまよう。
「ミノリ?」
いつしかミノリは隣から姿を消していた。俺より遥か後ろを歩きながら、ミノリはこちらに向けてカメラを構えている。
「いるよ、ちゃんと」
ミノリが声を張り上げる。そうでもしないと、あっという間に波音にさらわれてしまうと知っているからだろう。
ファインダーからひとときも目を離すことなく、再びミノリは脇を締め、砂浜にためらいもせず膝をついた。
ローアングルの構えだ。俺をこの青空ごと切り抜きたいのかもしれない。
「好きに動いていいから」
促されるまま、また一歩砂浜を靴底でかき鳴らす。
ミノリの生み出すシャッター音が、波間を切り裂くように響き渡る。断続的に、何度も。
多分、ミノリ自身も今は撮ることを止められないんじゃないだろうか。
かつてミノリが『UTSUGI.M』だったころも、こんなふうに夢中になる日があったのかもしれない。
世界を誠実に愛するあまりに、全てをカメラに残そうとして。時間なんて、いくらあっても足りなかっただろう。
俺もかつてはそうだった。
カメラと出会ったばかりのころ。今よりもっと純粋に、レンズ越しに映る世界と遊ぶためにカメラを構えた。
根っこは、同じだ。俺も、ミノリも。
それをうれしいと思う反面、内臓が焼け爛れていくような強烈な焦りが唐突に俺を襲う。
ミノリに負けたくない。
取り残されたくない。
ひとりにしないでほしい。
いつまでも俺だけを見てほしい。
――ダメな子だね。
突然、鼓膜の裏側で呪いが弾けた。ミノリに向けるどろどろした感情が大きなうねりに変わって、足元が見事に掬われた。
ああ、ダメだ。
バランスが保てず、体が傾ぐ。
このまま、俺は――。
「ハル!」
名前を呼ばれたのとほぼ同時に、俺はミノリの腕の中にいた。どうやらよろけた俺の体をミノリが支えてくれたらしい。
「足、濡れちゃったね」
ミノリの声に誘導されて俯けば、波打ち際に立つ二人分の靴が視界に飛び込んだ。いつの間にか、俺はこんなところまで来てしまっていた。
「なんかすげえ冷たい」
思ったままに呟くと、ミノリの腕が小さく震え出す。笑いを堪えているらしい。
「それはそうでしょ。俺も冷たいし、寒いくらい」
車に戻る? 問われ、ゆるゆると首を振る。
「このまま続けろよ、撮影」
「いいの?」
「だって今のおまえ、ノってるだろ? 止めろって言われて止められるのか?」
まるで自分に言い聞かせているみたいで、笑ってしまう。
「止めたくない」
ミノリが言う。
俺の目を、心臓を、ミノリの瞳に貫かれる。
「続けたいんだ」
すごいと素直に思えた。
軽く背中を押すだけで、ミノリのブレーキはあっけないほど簡単に外れてしまう。
再びミノリがカメラをこちらに向ける。俺の歩調に合わせるように、世界がまたひとつ刻まれていく。
カシャリ。
そういえば、あの人と――夜野さんと初めてポートレートの練習に赴いたのも海だった。
彼の指導はいつだって、狂気がほとばしるほどに熱心だった。
そして彼が思う理想のポーズを、必ず決めなければならなかった。
早く笑わなければ。
美しくなければ。
百点を叩き出さなければ。
夜野さんから『ダメな子』だと見捨てられないように、俺は『自分』を世界に晒すことをやめた。
カシャリ。
「ハル!」
ミノリが叫ぶ。
ミノリの瞳がまるで流れ星を追うように、砂浜に沈んでいく俺を見つめていた。
手足が震える。呼吸が浅くなる。
うずくまる俺の足元を、波がいたずらになぞっていく。スニーカーの色が濃く、そして重くなり、濡れた足先から体温が奪われてしまう。
震えがさらに強まった。
自分の体をかき抱く。止まれ、と何度だって言い聞かせる。
震えんなよ、お願いだ。いったいなんのためにここまで来たのかわからなくなる。
俺を撮っているのはミノリなのに、どうしたって過去に連れ戻されて撮られることが怖くて仕方ない。
「ハル、もういい。顔が真っ青だ」
ミノリの声がして、頭を強く抱きしめられた。コートもズボンも濡らして、だけど意に介することなく俺を抱きしめ続けてくれる。
「俺は、おまえに撮ってほしいんだよ……」
肺が擦り切れそうだった。それでも言わなければいけない気がして、ミノリの腕にしがみつく。
「おまえの写真が、見たいんだ」
才能にいつか灼かれても構わない。俺なんかが役に立つのなら、いくらでも利用すればいい。
ミノリの写真が消失した世界で生きるより、今のほうがずっとずっとマシだ。
なのにどうして俺だけがいつまでも、過去という杭にうちつけられたまま前へと進めずにいるんだろう。
必死に呼吸を繰り返す。その度にミノリが俺の背中をやさしく撫で、目の奥が激しく熱を帯びていく。
「大丈夫。大丈夫だよ、ハル」
肌に落ちるミノリの冷静な呼吸は、寄せては返す波のリズムにとてもよく似ている。
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