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第四章 潮騒とシャッター音 3-1
目を覚ますと、車の窓から見える空は、夕焼けと夜の境界線を丁寧に絵筆でぼかしたような色をしていた。
海で散々取り乱した後、なんとか落ち着きを取り戻しはしたものの、そのまま車の中で眠ってしまったらしかった。
重たい体を起こせば胸の上からミノリのコートが滑り落ちる。
ミノリがわざわざかけてくれたんだろう。そのコートの袖口や裾はまだ湿っていた。
膝下に向かって落下し続けるコートを急いで抱き止めると、見計らったように声をかけられる。
「起きた?」
運転席でスマホをいじっていたミノリが、すぐにこちらへ視線を寄越してきた。その顔に明確な覇気はなく、疲労すら滲んでいる。
「ごめん。俺、どれぐらい寝てた?」
「一時間は経ってないと思うけど」
ぎゅっとミノリのコートを握ると濡れた箇所と触れ合って、何度謝っても謝り足りない気になってしまう。
もう一度「ごめん」と口を開きかけた俺を遮るように、ミノリがエンジンをかけた。ガソリン車特有の大きな振動の後、息を吹き返すようにヘッドライトが灯る。
「体調、もう大丈夫?」
「あ、うん、それは……」
「……なんて一応聞いてみたけど、今、平気なふりするつもりだったよね」
ハルの顔色、ヤバいよ。
いつもなら甘くさえ感じてしまうミノリの笑い声が、今日はなんだか鼓膜に鋭く突き刺さる。見抜かれることがこんなにも悔しいと思ったのは初めてだった。
「このまま戻るの、しんどいでしょ」
ミノリが俺の顔に手を伸ばす。頬を一度だけなぞると、またすぐに離れていく。
「今日は泊まって帰ろう」
無理して帰るよりはいいよ。そう続けて聞こえてきた声に、俺は耳を疑った。
「おまえ、なに考えてんだよ。っていうか、泊まるってどこに」
「ラブホ。ビジネスの方も調べたけど空いてなかった。でも泊まるだけならどこも一緒だし」
それでいいかと問われる気がして、身構えた。でも結局ミノリは俺になにひとつ訊ねることなく、アクセルを踏み、車を発進させる。
対向車のハイビームに顔をしかめる横顔は、いつも以上に頑なだ。
無言の車内に、心臓の音だけがしつこく俺にまとわりついた。
ラブホテルに到着し、空室の部屋を選んで入るなりミノリは「シャワー浴びてきてよ」と指示をした。
「その間にこっちもいろいろ連絡済ませておきたいから」
脱いだばかりの自分のコートを、ミノリに横から取り上げられる。ハンガーラックに二人分のコートを手際よく吊していく後ろ姿に、俺は勇気を出して話しかけた。
「もしかしてスタジオのことか? 明日、おまえは仕事だったよな?」
「もともと時差出勤する予定だったし、午前休に変えられないか聞いてみるだけだよ」
ほら、早くシャワー浴びてきて。ミノリが備え付けのガウンを俺に押しつけた。
「だったらなおさらよくない」
「なにが? それじゃあ体調の悪いハルに無理させて、車を走らせろってそう言いたいの?」
信じられないとでも言いたげに、ミノリが自嘲する。
「どう考えてもそれが一番いいだろ」
「ありえない。ハルの言ってることおかしいよ。どうして、そんな……」
そこまで言うと、ミノリは堪えるように口をつぐんだ。それから乱暴に自分の髪を手でかき混ぜるなり、イライラとした様子でベッドに腰かける。
ミノリをイラつかせる原因を作ったのは俺だ。取り除くには、ここから出る必要がある。そこまではわかるのに、ミノリになんと言えば俺の気持ちを受け取ってもらえるのかわからない。
夜野さんと付き合っていたときは、彼の言うとおりにすれば大抵のことは喜ばれ、ある意味それが恋人でいるための道しるべでもあった。
でもミノリは違う。ミノリの気持ちには、道しるべのような明確さがない。
行き先なんか教えてくれない。形のない柔らかくて温かいもので俺に寄り添おうとする。もうずっと鞄の底に沈んだひとつしかない鍵を探すような、手探りみたいな恋をしている。
「俺のやり方、もしかしてまた間違った?」
視線をミノリに向ける。その顔には力がなく、咄嗟に首を横に振ってしまった。ミノリは俺の嫌がることを極端に怖がる節がある。
「だったら、休もうよ。俺のことは気にしなくていいから」
胸の前で抱えたガウンを、より強く抱きしめた。
「気になるんだから仕方ないだろ。こういう性分なんだよ」
「じゃあ俺だってこういう性分なんだよ、譲れない」
「譲れよ、俺なんかのためにミノリの時間を犠牲にしていいわけ……」
「俺なんか、って言うなよ!」
余裕のない声だった。
「……大切にしてよ、もっと自分のこと」
思わず口を閉ざした俺を見るなり、ミノリが今にも泣き出しそうに顔を歪めた。しかしすぐに俺から背を向けるとシャワールームをそっと指差し、明るく話しかけてくる。
「ごめん、大丈夫。だから早くシャワー浴びてきて。服も濡れてるし、風邪ひいちゃうよ」
これ以上の問答を続けても、ミノリは聞く耳を持たないだろう。一度意地を張ると、互いに譲れなくなるのはいつものことだ。
大切に。大切に。自分にしつこく言い聞かせる。
「わかった。先に借りる」
微動だにしない背中へ返事をし、息を詰めながらバスルームへと向かった。
脱衣所で服を脱ぐと、さらさらとした音が鼓膜の奥をくすぐる。
下を見ると、無数の砂が足元に散らばっていた。
服のどこに潜んでいたんだろうか。床の上でそうっと足を滑らせれば、ざらりとした感触が皮膚をいたぶっていく。
扉一枚隔てた向こうでは、ミノリの声が細々と響いている。つい耳を澄ませてしまった。
「はい……はい……申し訳ありま――……」
いつもの軽やかさなんてどこにもない。事務的で、抑揚のないそれは俺の胸を執拗に締めつける。
ごめん。重い吐息が浴室に落ちた。
シャワーを浴びる間もずっと、耳のすぐ近くでミノリが話しているような浮ついた感覚がついて回り、気もそぞろになった。
ミノリがシャワーを浴びた後も、ルームサービスの薄い冷凍ピザとカレーをシェアして食べるときも、結局ろくに会話もしないまま、やがて二人でベッドに横たわった。
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