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第四章 潮騒とシャッター音 4-1
翌朝、スマホから流れるアラームの音で目が覚めた。
何度かまばたきを繰り返すうちに、思考も視界もゆっくりと整ってくる。
ぬくもりを求めて指がシーツをなぞる。しかし、隣にあるはずの温度がない。
ミノリが、いない。
名前を慌てて呼んでしまう前に、ベッドが深く沈んだ。
「目、覚めたの? そろそろ俺のほうから起こそうと思ってたのに」
目を向ければ、ベッドに腰かけたミノリの姿が映る。裸の俺と違って、すっかり身支度を整えたミノリが俺の髪をさらりと撫でた。
「いつから起きてたんだ?」
「ハルが起きる二時間前ぐらいからずっと。なんかうまく寝つけなくて」
ミノリの苦笑は、起き抜けの俺の頭を素早く覚醒させるには充分だった。
「起きたばっかりで申し訳ないんだけど、もう少ししたら出発しよ。俺、午後から仕事だから」
そうだ。本当なら日帰りの予定だった。ミノリが自分の予定を押してまで俺を気遣ってくれたからこそ、ここにいる。
小さくうなずき、気だるさとわずかな痛みが残る体を引きずるようにして起こすと、ミノリの顔がぐっと近づいてきた。
「平気?」
心細げに訊ねられた。多分、いろいろなことをひっくるめての「平気」だ。
「まあ体以外は、平気」
「やっぱり痛い?」
「動けないほどじゃないな」
初めてってわけでもないし。言いかけて、口を噤む。過去の色恋なんて、ましてや今も苦しめられているなどと改めてミノリに聞かせる話でもないだろう。
息を整えながら気丈に笑いかけると、ミノリがほっとしたように目尻を下げた。
「おまえこそ平気なのか?」
「なにが」
「その、運転とか。寝不足だとキツイだろ」
「でもレンタカーだし、返さないとレンタル代がかさむ一方だから」
「……そうか、そうだよな。旅に終わりは付き物だしな」
噛みしめるように呟くと、ミノリは俺に唐突なキスをした。ほんの一瞬触れるだけの口づけは、昨夜から体内に留まる余韻を揺り起こし、痛みまで和らいでいくようだった。
「なんだよ、いきなり」
「今しないと一生後悔する気がして」
なんなんだよ。これが、このキスが、最後みたいに言うなよ。
離れがたくなる。なのにミノリはこの甘くなりすぎる空気を断ち切るように、俺からさりげなく視線を逸らしてしまう。
「ほら、着替えよ。体がつらいなら手伝うけど」
「子どもじゃないんだから一人でやれる」
そう言うと、ミノリは「残念」と大げさなほど肩をすくめた。
妙なぎこちなさに包まれたまま、ホテルを出る。
車に乗り込み、シートベルトを締めながら吐いた息はすっかり冬さながらの白さだった。
屋内式の駐車場から外へ向かい、太い国道を走り出すと視界が一気に明るくなる。
輪郭のぼやけた起き抜けの街。潔癖なほど凍えた空気。そこに差す太陽の光は、一切の停滞を許さないほど暴力的だ。
まるでハレーションを起こしたように目がくらむ。俺たちはさっきまで随分と暗い場所にいたんだと改めて思う。
ベッド。狭い空間で、二人きり。変な空気にならないのがおかしいほどだ。
でも実際にはミノリを押し切る形で体をつなげてしまった。尊重なんて、してやる余裕もなかった。
ひとまず同意の上とは言え、ミノリの困惑と葛藤が肌に残るような行為になってしまったのも本当だ。
でも、俺にとってあれは必然だった。呼吸と同じぐらい、手に入らなければ死んでしまいそうだった。
昨夜の言動を何度となく頭で反芻しながらも、なかったことにだけはしたくない、と断固として思う。
これからミノリがどんな決断を下そうとも、それが今の自分ができる最低限の責任の取り方だろう。
街並みの切れ目から見えていた海が、次第に遠ざかっていく。ふと潮の匂いがした気がして、閉め切っているはずの窓を見る。
そこにはただ淡々と流れる景観があるばかりだった。
もうすぐ高速だ。たちまち喉元までこみ上げる感情は、ガラスに映る俺をひどく弱い生き物に作り変えていく。
終わりたくない。
そう思った瞬間、ミノリが「ハル」と呼んだ。
春の日差しにも似たその声につられて、落ちた視線をあげる。
そんなふうにして駅の広場で出会った日のことを、今もまだ昨日のことのように思い出せる。
「海、見に行こっか」
帰る前に、少しだけ。
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