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第四章 潮騒とシャッター音 4-2
昨日と同じ姿で、海は俺たちの前に広がっていた。
少し触れただけでも凍えそうな水温だったのに、朝早くからサーファーたちが波と真剣に戯れていて「寒くないのかな」とミノリが心底不思議そうに呟いた。
「寒いだろ、多分。でも冬はいい北風が吹くから波が高くなって、サーフィン向きらしいって、ともちゃんが」
「へえ。ともちゃん、サーフィンするの?」
「トレモロのスタッフからの又聞きだよ。あいつ、運動音痴だから」
けど運動はできなくても料理はできるよ。ミノリが笑う。
「俺、ともちゃんから料理習おうかなあ」
「また急だな」
「そうでもないよ。自炊苦手だろ、俺もハルも」
「まあ、そうだけど」
ミノリの背を追うように、砂浜を歩いていく。時々立ち止まり、ミノリは一眼レフを構えてシャッターを切る。
レンズの向かう先には今、自由奔放な白波を飼い慣らす一人のサーファーがいた。
器用にバランスを取りながら、長く、長く、波に乗り続ける。軸を崩し、波に飲まれていくその瞬間まで、連写の音が潮騒に混ざった。
「おばあちゃんが作る夕飯って、いつも温かかったんだよね」
ミノリがしゃがみ込む。砂浜に置いたカメラバッグへ一眼レフを戻しながら、再び話し始めた。
「どれだけ疲れてても、必ず出来立てのご飯を食べさせてくれて。アレがちょっとした憧れなんだと思う、俺の」
「なら、そのおばあちゃんに習えばいいんじゃないか?」
「俺もそう思うよ。でもおばあちゃん、もうずっと認知症なんだ」
ミノリが砂を払いながら立ち上がった。パキン、と割れた音がして目線を下げると、ミノリの足元では白くて平たい一枚の貝殻が粉々になっている。
「俺のことがわからなくなって、料理もできなくなって今は施設に預けられてる」
「そん、な……」
「俺もそのころからなんかおかしいんだ。撮る写真に迷いが出るようになっちゃった。でも悩んでる俺を気長に待ってくれるほど、世間は俺にやさしくなかったなあ」
ミノリの小さな笑い声が潮風に乗り、やがて俺の心臓へ突き刺さる。
「お金も底をついて、機材も売ってさ。でも結局カメラだけは手放せなかった。生きるためなら、どんな撮影でもうなずいて、とにかくこなしてやろうと思った」
気丈に語れるようになるまで、どれほどの時間を費やしたんだろう。
ミノリはやさしい。俺が知るどんな人よりも。
この男が見せるやさしさはきっと、消えないたくさんの傷を覆い隠すガーゼのようなものだ。
傷ついているところを誰にも見せないように。これ以上自分が傷つくことがないようにして、ミノリと出会った人たちは傷の上に成り立つ、つぎはぎだらけのやさしさに感謝をしてきたんだろう。
「それじゃあ『UTSUGI.M』が姿を消したのは」
「嫌だったんだ。今のオーナーに頼み込んでスタジオの雇われになって『UTSUGI.M』として活動するのは、おばあちゃんの教えを汚すようで、俺が耐えられなかった」
風が吹き、目元を覆い隠すようにミノリの髪がたなびいた。
「でも不思議だよね」
ミノリが続ける。スニーカーの中にはいつしか砂が紛れ込んで、足先を動かすだけでざらりと触れ合う。
「俺が『UTSUGI.M』だったことなんか、仕事で出会う大抵の人は知らない。俺が義務感だけで撮ったものはいっぱい評価してもらえる。それじゃあ俺が今までに撮ってたものはなんだったんだろう、ってわけがわかんなくなって……そんなときに出会ったのが『レンタル彼氏』だった」
たとえそれが借り物だとしても、自分自身を必要とされることで満たされたんだとミノリは言う。
そうして傷を誤魔化しながら、ミノリという人間は出来あがり、俺の目の前で今も平然と笑い続ける。
「ねえ、ハル。大丈夫?」
「なにが?」
「今、この話聞いて引いてない?」
ハルに引かれたら、ちょっと立ち直れないかも。
一瞬泣きそうな顔をして、ミノリはまたすぐに思い直したように口角を持ち上げた。
「引くわけないだろ」
なんとか笑ってみせたが、下手な笑顔になった気がする。
それでも俺が笑うことで、ミノリの目尻の皺が深くなり、少しだけ救われたような気持ちになった。
「『レンタル彼氏』の仕事は好きだよ。みんな俺といるとうれしそうにしてくれる。演じてる間だけは撮れない自分のことも考えずに済んだ。俺の天職なのかなって思ったこともあったけど、でもそうじゃなかった」
「……ミノリ」
「ハルと出会ったから。出会っちゃったから、全部、思い出した。やっぱり撮りたいんだよ、好きなように」
苦しい、とミノリが崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。まるで叱られた子どものように、折りたたんだ長い膝を抱え、顔を埋めてしまう。
――自分が好きと思ったものを撮ればいい。
――答えはあなたの心が教えてくれる。
それはすっかり俺にも根を張ってしまったミノリの祖母の教えであり、揺らぎ続けるミノリの体内で存在する心臓そのものだ。
だからこそミノリはずっと守ってきたんだろう。たくさんの膜に包んで、守って、祖母の言葉を決して見失わないように。
手放せば幾分か楽になれるとわかっていながらも、大切に抱き続けたそれは今、共鳴するかのように俺の胸を高鳴らせる。
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