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第四章 潮騒とシャッター音 4-3
「ハルを撮りたい」
こんなにも冬の海辺は寒いのに、おかしなぐらい体全体が熱く灼かれている。
「でも俺が求めると、ハルを苦しめるんだ」
違う、ミノリ。そうじゃないんだ。
反論する。だけどそれはミノリに届かないほど、ひどく弱々しい。
ミノリがあざ笑うように鼻を鳴らす。
「……俺はなにかを好きになっちゃいけないのかよ」
俺たちを遮る波の音が、あまりに大きすぎた。
砂に足をとられながら、ミノリに近寄る。膝をつく。いつもより小さく見える肩にそっと手を置くと、驚いたようにびくりとミノリの体が震えた。
たちまち怖くなる。
言えない時間ばかりが過ぎてしまう。
このまま俺たちの関係は、終わりを迎えるのかもしれない。選択をひとつでも誤れば、もうやり直すこともできないようなそんな恐ろしい未来を思い描き、触れるのが怖くてたまらなくなる。
でも俺は自分で自分を大切にするように、目の前にいるミノリだって大切にしてやりたい。
「なあ、ミノリ。俺の話を聞いてほしい」
ミノリは答えない。しかしもう一度、勇気を出してミノリに手を伸ばす。
冷たい海の空気で肺がいっぱいになっていく。
「俺、昔好きな人がいたんだ。俺の師匠みたいな人だった」
ミノリの髪を撫でる。そろそろと高揚した顔を上げ、俺を見ることなく、まっすぐに海だけをミノリは見据えている。
「俺に写真を教えるとき、バカがつくほど真剣で、情熱的で、そんなところにすごく惹かれてたんだと思う。でもその真剣さが、いつからか少しずつおかしくなったんだ」
大学時代、アシスタントとして夜野さんのスタジオでアルバイトをしていた。卒業して、転がり込むように夜野さんのスタジオに就職し、写真に関する術を密に教わるうちに、いつしか心まで危険なほど近づいた。
だけど甘い恋人関係もそう長くは続かず、ほんの少しずつ音を立てて狂い出した。
『ダメな子』と言われ続けたこと。自分の教えどおりの『贋作』であるように求められたこと。
それは俺に解けない呪いにかけて、いつからか撮ることも撮られることも、一人の人間として生きていくことすらひどく怯えるようになってしまったこと。
昔話をするたびに息が詰まりそうになる。
それでも話さなければいけない。向き合わなければ。
過去とも、ミノリとも。
「これでもその人のそばから離れた後は、結構長く引きこもってたんだ。ベッドでぼうっとするだけの時間が長くなって、でもそんなときいつも、おまえが受賞したあの水たまりの写真を眺めてた」
久しぶりにミノリが俺を見た。
「こんな俺でも写真を撮っていい。生きていくうちにいつか誰か、この写真みたいに本当の俺を見つけ出してくれるかもしれないって思ってた。ミノリの写真が俺をここまで生かしてくれたんだ」
「ハル……」
「好きだよ、ミノリ」
異国の色をした瞳が潤んで、さらに色を薄くしていく。
「おまえに出会えて、よかった」
本当に、よかった。噛み含めるように言葉を重ねた瞬間、俺はミノリの腕の中にいた。
巻きつく腕に、俺への配慮なんてない。あまりに強くて痛くて、もうとっくに枯れ果てたと思っていた幸福を、体の奥底からポンプのように押し上げてくる。
涙腺が変になって、それでもみっともないと抗ってみたのに、あっけなく失敗に終わった。
涙があふれる。嗚咽すらこぼす俺を、ミノリが殊更強く抱きしめてくる。
「もっと言ってほしい。俺の全部をハルにあげるから……」
共鳴するように、口を開く。
「好きだ。怖いぐらいに、ミノリのことが好きなんだ」
俺の首筋にぽつりと生あたたかなものが落ちてくる。ゆっくりと顔を上げると、ミノリはただただ静かに涙を落としていた。
「もっと言って」
ミノリの声が波より細かく震えている。
取り憑かれたように何度となく、好き、を繰り返す。
やがて言葉すら意味を為さなくなって、潮風の寒さから身を守るように抱きしめ合いながら、しばらく黙って海を眺めた。
「……きれいだ」
波音の狭間で、ミノリの声が凛と響く。
どこかまぶしげに海を見つめる横顔は、誰の目にも触れさせたくない。
まぶたに焼きつける。消えるな、と思う。
他のどんな記憶を犠牲にしても構わない。
ともに見たこの海の景色を胸に抱いたまま、二人で生きてきたいと思ってしまった。
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