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第五章 さようならへの招待状 1
「え、ミノリ、もうすぐ韓国に行っちゃうの?」
グラスを磨く手を止め、ともちゃんがバーカウンター越しに身を乗り出した。
師走に入り、忘年会帰りらしき社会人たちが『トレモロ』の店内にちらほらと点在している。
それでも平日のど真ん中だからか、客たちは自然と節度を守った飲み方をしているようだった。
「落ち着けって、仕事だよ。そこまで驚くようなことじゃないって」
「びっくりしたあ。なるほど、仕事ね」
俺の隣に座っていたほのかは、ほっとしたように肩の力を抜いた。残っていたカクテルを飲み干すと、再びほのかが口を開く。
「でもまさかミノリが現役のフォトグラファーとはね。モデルかなあぐらいには思ってたけど、予想の斜め上だった」
先日の撮影旅行で購入した土産を手に、ミノリといっしょに『トレモロ』へ寄ったのは十一月も終わりごろの話だ。
たまには『トレモロ』以外でお酒を飲むぞ。
旅行の話を始めた途端、前のめりになったともちゃんから飲みの誘いを受けて、またそれとは別の日にほのかのおすすめだという駅近のワインバルに集まって、四人で飲むことになった。
飲み会での話題は、もっぱら俺たち二人のことだった。
『トレモロ』からの派手な逃走劇を繰り広げたとあっては、恋バナを生きがいとするともちゃんに捕まらないはずがない。気恥ずかしさから店に通うのを自然と足が遠のいていたとはいえ、むしろよくここまで我慢してくれたほうだと思う。
俺とミノリが付き合っていること。そしてミノリはレンタル彼氏として活動する傍ら、フォトグラファーとして働いていること。洗いざらい吐き出して、ようやく解放されたときには、なぜかともちゃんがマッチングアプリを真剣に眺めていたのを覚えている。
「オーナーの撮影にくっついて行くんだって。自分から同行させてほしいって頼んだらしいけど」
そう告げると、ほのかが興味深そうにまばたきを繰り返す。
「なんの撮影をするのか、ハルちゃんは聞いてるの?」
「アパレルの春用のポートレートらしい」
「そっか、時期的にそうなるよね。真冬でも撮影は先取りだから」
コスメブランドのマーケティングを担当するほのかも、冬のロケの過酷さを思い知っているんだろう。長いため息には随分と情感がこもっている。
「そうなると『レンタル彼氏』の仕事はちょっと控えるってこと?」
ほのかの疑問に、おそらく、と答えた。
「というか少し前から、仕事量自体を減らしてるっぽい」
ミノリいわく、俺との時間を捻出するためらしい。でもそれをほのかたちの前でおおっぴらにするには惚気でしかなく、言うのは憚られた。
「まあそっちの仕事は少ないほうが春輝的にはいいよな」
「なんでだよ?」
ともちゃんの発言に顔をしかめると、当然だろ、と返ってくる。
「自分の恋人がほかのやつと恋人ごっこしてるの、単純に、っていうか生理的に嫌でしょうよ」
「うわ、出た。お兄ちゃんの恋愛脳。仕事と恋愛をはっきり分けられないタイプ」
ほのかが怪訝な顔をして、頬杖をつく。
「ミノリのアレは仕事でしょ? そのへんは割り切っていかないとこの先関係なんか続いていかないって。ねえ、ハルちゃん」
「……たしかに。いまさら気にしてもとは思うよ。あいつ『レンタル彼氏』の仕事も好きだから」
舌の上を滑らせるように、あらかじめ頭の中で用意していた言葉を吐き出した。
恋人同士になるのはいい。でも重荷になりたいわけじゃない。
割り切った態度を貫いているほうが、圧倒的にミノリは自由でいられる。わかっているからこそ『レンタル彼氏』の話は俺からは多くを持ちかけない。
「春輝がいいなら俺はいいけどさ。けど彼氏ではあることは間違いないんだし、『レンタル彼氏』辞めろーは言えなくても、さみしいよーぐらいは素直に言えば?」
「え?」
「彼氏とちょっとでも会えないってなるとさみしいもんだろ?」
スロウジャムのテンポが酒の入った体に心地いい。でもラブソングが何気なく身に沁みてしまうときは、大抵気落ちしているときだった。
今はまだそこまで焦りもさみしさも感じていないのに、不思議な心持ちがしてしまう。
「一週間だよ、たったの。それぐらい我慢できる」
「でもミノリのほうはどうだろうなあ。ハルに食べてほしいから、って最近は俺から料理習おうとするぐらいだし、あいつ、春輝に絶対べた惚れよ?」
「あ、それはわかる。このまえの飲み会のときもね」
ほのかとともちゃんが目線を合わせ、もう一度「ねー?」と声を重ねる。こんなときに限って、安宅兄妹はやけに馬が合う。
「ほんとにさ、誇張でもなんでもなくてずーっと春輝のこと見てんの、あいつ」
「……そんなに?」
ともちゃんに問うと、ゆるぎない力強さでうなずいた。
一緒に過ごす時間は前にも増して長くなり、顔を合わせば好きだなんだと言ってはくれる。
しかしミノリの好意を周囲の人間から改めて言葉にされると、想像以上に照れくさいものがあった。
ゆるみそうになる口元を手で覆うと、うわ、とともちゃんが声をあげる。
「ずるいぞ、春輝。その顔はずるい。相手が変わると、あんなにキャンキャン噛みついてたおまえですら、こうも変わっちゃうのか」
嫌味を言われたのかと思って、ともちゃんを軽くにらんでみたが、肝心の本人はどこ吹く風だ。
「今の春輝くん、とってもいい顔してるんですよ」
「いいなあ、ハルちゃん。しばらく彼氏なんて作らないつもりだったけど、ちょっといいなって思っちゃう」
「そうだ。なんなら『トレモロ』の二次会パーティー用に二人をモデルに起用するってのはどうよ?」
同性同士のパーティー需要もあることだし。
そう告げるともちゃんへ、すぐに返事はできなかった。
さっきまで笑顔だったともちゃんの表情がにわかに崩れ、ほのかの視線がやけに頬に突き刺さる。
慌てて「うん、まあ」などと取り繕ってみたが、一足遅かったかもしれない。
「ハルちゃん、もしかしてまだ怖いの?」
神妙な顔つきのほのかに向かって、首を横に振った。
気まずさを押し流すように、カクテルを飲む。俺が来ると毎回出してくれるようになった桃色のベリーニだ。
アルコールが体の中で飽和してどこか体は熱く浮ついているのに、心はやけに冷ややかだった。
「……少しずつ、変わってはきてるんだ」
観念して、アルコール混じりの吐息に声を乗せた。
「撮ることはできる。でも撮られるってなると、やっぱりいろいろ思い出してしんどくなる日がある」
撮られることは、世界に自分を差し出す行為だ。
フレームに収まったときから、不特定多数の人間に晒される可能性を得てしまう。
長い間「ダメな子」だった俺がその姿をこの世に残すことへの抵抗感はまだまだ強く、ひどいときには先日の海での出来事と同じくフラッシュバックに苛まれる。
でも、と重みを増した空気を振り払うように、二人に向けてなんとか笑ってみせた。
「ミノリには負けたくないって思うから。だから、その、週末のスナップ撮影、俺に依頼を回してほしい」
いつのまにか、カウンターに置いた自分の手は拳へと変わっていた。
「……本気なんだな?」
ともちゃんの問いに、うなずいた。
誘いを受けてからずっと考えていたことだ。
結婚なんて、人生においてそう何度もある話じゃない。少なからず『トレモロ』で二次会のウエディングパーティーを開く二人にとっては、一世一代の大イベントだ。
そんな重責を背負いながら、シャッターチャンスを取りこぼすことなく、依頼者を満足させられるのか。
俺なんかに務まるのか。俺なんか――。
何度考えても、出てくる答えはネガティブなものだ。
でも、だって、俺なんか。そうやって卑下することで、いい方向に風向きが変わった試しがないのも本当のことだった。
「本気だよ。やってみないことには、なんにも始まらないだろ」
俺の回答を聞き届けると、ともちゃんは屈託のない笑顔を浮かべた。
「それなら、こっちも本気出す。スナップ撮影の受注をガンガンもらえるように営業がんばる。いつか春輝が毎週末悲鳴あげたくなるぐらい仕事回してやるよ」
「……だってさ、ハルちゃん」
楽しみだね。ほのかもまた満足そうに笑って、俺の背中を軽く叩いた。
「っていうか今の言質だよ。スマホで録音しとかなきゃ。あとお兄ちゃん、いつまでも幼なじみ価格はダメだからね?」
「わ、わかってるよ! 俺だって腹括ったんだから」
「はは、頼むわ、ともちゃん」
笑い声が店内に溶けていく。一杯奢るよ、とともちゃんがシェイカーを振り始め、出来上がりを待つ間にかつて撮影したほのかとミノリのポスターへと目を向ける。
この撮影を行ったときには思いもしなかった方向へと自分が変わっていく。
ゆっくりと。それはまるでミノリの鼓動にも似た速さで変わっていく。
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