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第五章 さようならへの招待状 2-1

 『トレモロ』から帰宅した後、風呂上がりに何気なくスマホを手に取ると、ミノリからメッセージが届いていた。ついさっき送られてきたばかりだ。  ――今って、家にいる?  画面の端に表示された時刻は二十三時を迎えようとしている。くたびれたソファーベッドに寝転がり、必要な情報だけを打った。  ――いる。そろそろ寝ようと思ってた。  画面を閉じようと思ったタイミングで、また次のメッセージ。  ――まだ待てる? もう着くよ。  着く、ってここに?  ベッドに腰かける。新調したわけでもないのに、どこか座り心地の悪さを覚えて、結局すぐに立ちあがった。  近ごろのミノリは、仕事が休みの日にはふらりと撮影に出かけていく。  どこに行って、なにを撮ったのか。どんなモチーフに心を奪われたのか。  そんな撮影の土産話を、眠る前のちょっとした通話中に俺に語り聞かせてくれる。俺もまた、その時間が日々の密かな楽しみになっていた。    確か今日も釣りが趣味だという笹川さんにくっついて、釣れた瞬間の笑顔を写真に収めてくるから、と郊外の釣り場へ意気揚々と向かったはずだ。  しかし夢中になる日が続いたかと思えば、その反動かスタジオを一歩出るとカメラには指一本触れない日もある。  まるで心が動かない。そんなときは俺と外食をしたり、家で映画を観たりしてミノリは一日を過ごす。  ミノリもまた、自分を取り戻すための道半ばだった。  いつか心置きなく撮れるようになるまで、俺が寄り添えたらいい。  写真を介してこの世界を一生懸命に愛そうとするミノリの存在は、俺が再び前を向いて生きるための理由になりつつあって、これを失うことのほうが今は怖い。  ミノリは道しるべじゃない。でも進むべき道を探る俺の手に、そっと自分の手を添えてくれる。  それだけで俺は生きられる。 「あ……」  狭い室内を野生の獣のようにうろつくうちに、ふとインターホンが静寂を裂いた。もれた途端、気持ちが玄関へと引き寄せられて、衝動的に足を動かしていた。 「うわ、びっくりした」  鳴った瞬間に玄関を開けたせいだろう。ミノリは俺を見るなり軽く目を見開いて、だけどすぐに目元にやさしい皺を刻む。 「寝ようとしてたのにごめんね」  ぐるぐると首に巻きつけたマフラーにコート。そして重たげなカメラバッグ。弾んだミノリの吐息は白くなく、駅からここまでの距離の長さを思わせる。 「走ってきたのか?」 「少しでも早く会いたくて」 「子どもかよ」 「それはまあ、どうあがいてもハルよりは年下だけど」 「でも悪くないよ、ミノリのそういうとこ。それに俺も、早く来いって思ってた」  いいから入れ、とミノリを招き入れて鍵を閉める。ソファーベッドが占拠する部屋へと互いに踏み入ったところで、ゆっくりとミノリが後ろから俺を抱きしめる。 「ねえ、俺に会いたいって思ってくれてた?」 「……それ以外ないだろ」 「うん。うれしい」  ぐりぐりと頭を俺の肩に押しつけては全力で甘えてくる。そのたびにミノリの髪が肌に触れてくすぐったい。 「お酒の匂いがする」  すん、と体を嗅がれ、そのままうなじに音の立つキスをされる。  背筋が粟立つ。短い声が漏れる。思わず体がぴくりと跳ね、ミノリの小さな笑いが肌の上で弾けた。 「今日仕事帰りにトレモロに行って、ともちゃんたちとおまえの話をした」 「俺の話?」 「うん、仕事で韓国行くって話」 「それで?」 「さみしくないのかって聞かれて。別に一週間ぐらい平気だろってそのときは思ったけど……」  腹にまとわりついた腕にそっと手を這わす。ミノリが引き連れてきた冬の過酷さが服越しでも伝わるほど、その体は冷え切っている。  寒さと疲労を押し切り、衝動的に会いにくる年下の恋人。一週間の不在。 胸がいっぱいになって、少し苦しい。 「……やっぱりさみしいかもな、ってちょっとは思ってる。最近は頻繁に会ってるから余計にそう思うんだろうな」  まあ、ちょっとだけな。小さく笑って、腕の中で振り返ると半ば強引に唇が合わさった。体重をかけられ、体勢を保つこともままならない。 「……っん、……」  年季の入ったカメラバッグがミノリの肩から床へと落ちる、そのゆるやかな軌道を視界の端で捉えた。  この後に待ち受ける行為が容易に想像できて、勝手に熱を生んでしまう自分に、時々途方に暮れることがある。  ミノリと付き合いだしてから、自分がどんどんと貪欲な生き物に成り果てていく。  ミノリの胸を押し返すのでさえ、どうしようもなく葛藤が滲んでしまう。 「……気分じゃない?」  額をこつんと突き合わせる。顔をかすかに曇らせたミノリの指が、俺の唇をなぞっていく。 「まずは風呂入ってこい。おまえから撮影に同行したいってオーナーに頼み込んだのに、風邪でもひいたらどうするんだよ。行くの、来週なんだろ?」  冷静さを装えば、ミノリから楽しげな笑い声が漏れた。 「なんで笑うんだよ」 「俺、愛されてるなあって。幸せすぎて死んじゃいそう」 「バカ。簡単に死ぬって言うな」 「そうだね。ごめん、許して。明日の朝ごはん、おいしく作るから……あと少しだけ」  今度のキスは息継ぎすら許してもらえない。  やり場のなかった手に、ミノリの指が絡みつく。観念したように舌を差し出せば、まるで最初からひとつの生き物だったみたいにぴたりと重なり合って「あと少し」の長さに溺れてしまう。  なし崩しのように床に組み敷かれながら、スラックス越しの膨らみで俺の下腹部を物欲しげに擦ってくる。薄い唇が肌の上を這うと、中心が疼きを訴えた。  今日は最後までできるだろうか。体の中でぐんぐんと水位をあげていく快楽を、いつものように不安が遮る。  そんな俺を宥めるように、ミノリの愛撫は急ブレーキをかけたように穏やかになった。

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