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第五章 さようならへの招待状 2-2

 ミノリと休みを合わせるのは難しくても、今ではなんだかんだで週二日はどちらかの家で朝まで過ごすような生活だった。  ともちゃんから料理を習い始めたミノリが、たびたび朝食を作ってくれる。  セックスは、する日もあれば当然しない日もある。  するとしても、俺が原因でいつも失敗する。なにがきっかけでそうなるのかいまいち釈然としなかったが、一度でも昔のことを思い出すともうダメだった。  過去に呑まれた俺を抱くことに、ミノリはどうしても抵抗があるようだった。  最後までするほうが稀だ。大抵は俺の中で果てることなく抜き去って、赤ん坊をあやすように抱きしめて終わりにする。  ごめんな。暖かな腕に包まれながら謝罪する俺を、ミノリは一度たりとも責めたことがない。  責めないかわりに、夢の中に出てきてくれたらそれでいいよ、とあられもなく告げ、そんなミノリの真綿みたいなやさしさに俺は切なさを募らせる日々だった。 *  土曜の夜、俺はミノリの家に寄った。  明日日曜には韓国に向けて出発するミノリと少しでも長く一緒にいたい。それだけの理由だった。  なんとなく、セックスはしなかった。  ミノリの腕に包まれながら眠りについたものの、しばらくして不意に目が覚めてしまう。  本来なら白であるはずの天井は灰色がかっていて、まだ夜が明けてないことに気づく。  俺の隣は空っぽだった。  まるで蝉の抜け殻のように布団だけが人間の形にふくらんで、ミノリの存在だけを空虚に知らせてくる。  体を起こして室内を見渡せば、パソコンデスクの前で青白い光を浴びるミノリの姿があった。  電気もつけずになにをやってんだよ。詰めていた息を静かに吐き、物音を立てないようにミノリの背後から忍び寄ると、モニターから目を逸らすことなく揺れる細い肩がある。 「なんで気づくんだ?」  悔しい、と正直に本音を漏らせば、ずらりと並んだサムネイル写真を前にして、ますますミノリは笑みを深くするばかりだ。 「パソコンに集中してるように見せかけて、本当は全然集中してないからかなあ」 「どういう意味」 「ぐっすり眠れてるかとか、うなされてないか、とか。ハルの吐息に聞き耳立てたりしてるから」 「心配しすぎだろ」 「それぐらい好きってことだよ。本当は明日からの撮影も、ハルを連れていきたいぐらい」  呆れてため息をつけば、冗談だよ、と空気のような軽さで返ってくる。ミノリが言うと冗談に聞こえないから困り果てるばかりだ。 「眠れないなら、いっしょに見る?」 「最初からそのつもり」  近くに立てかけてあった折りたたみ式の椅子をミノリの隣に広げ、腰をおろす。  いつしか俺のためにわざわざ用意してくれた椅子だった。こうしてミノリが写真の選別や編集を始めると、毎度「見せろ」と俺がしつこくせがんだからだろう。  今では俺が持ちこんだ写真データや、過去に制作したアルバムなんかも、ここに座って一緒に眺めることもある。  恋人とフォトグラファー。  その境界線が、俺たちの中でますます曖昧になっていく。  いつか切り離せなくなるほど密着した両軸は、俺たちがともに過ごす絶対的な理由になってくれるのかもしれない。  そんな日が待ち遠しいような気がする。でも、もっとゆっくりでもいいような。  ああ、けど、次こそはどうか失敗しないように。   そんなふうに今より少し先を考えるだけのとりとめのない時間が、わずかな痛みとともに俺の足元をふわふわと浮つかせる。 「それでなんの写真見てたんだ?」 「この前、おばあちゃんのお見舞いに行ったときに撮ったやつ。やっぱりフォトコンに出すだけ出そうかな、って思ってさ。渡韓するまでに選んでおきたくて」 「へえ。どこに出すのか決めたのか」  訊ねるとミノリは、うーん、と唸りながら天井を仰いだ。 「大きな賞はさすがに気負うから……テーマをしっかりと持ってないと簡単に落とされるし、もし受賞できたとしてもその後の活動に影響してくる。まあ簡単に受賞できるものでもないけど……」  どうしようかな。ぽつりと呟くと、ミノリは目を伏せた。  気弱なミノリを見るのは久々だ。  一度ばかりの受賞は、ミノリに自信を植えつけるどころか大きな喪失を与えてしまった。  心の回復には時間がかかる。  近ごろは精力的に写真を撮っているとはいえ、大事な決断の前には必ず過去がついて回り、ミノリの判断力を鈍らせるみたいだった。 「でも出すかどうか迷ってたらさ、おばあちゃんが背中を押してくれたんだ。私の写真でミノリの心を表現できるのなら遠慮なく使いなさい、って」 「……おばあちゃん、ミノリのことわかったのか?」 「一瞬だけね。次に話しかけたときには、俺のことはヘルパーさんだと思ってたけど」  毅然とミノリは笑う。  ミノリは、強い。俺が同じ立場ならこんなときにはきっと笑えない。 「ね、ほら見て」  ミノリのほうに身を寄せながら、車椅子に座る女性を眺めた。  写した場所は、祖母のいる施設のラウンジだろうか。  太陽を取り込む大きな窓ガラスの付近にはいくつものテーブルセットが並んでいて、その空いたスペースに彼女はいた。  白髪のショートヘアで、下手すればボーイッシュになりがちなそれも清潔感と品のよさを醸し出している。  施設にいることもあってか化粧っ気こそないが、高い鼻筋やヘーゼル色の柔和な目元はまるで人形のようだ。  それでも親しみを覚えてしまうのは、彼女の歩んだ人生を顔のしわの数が教えてくれるからだろう。  認知症を患っていると聞いてはいるものの、写真からはその片鱗すら感じ取れない。  カメラに向かってほほ笑む祖母のまなざしには、家族への確かな慈愛が滲んでいるように思えた。 「きれいな人だな」 「……それ聞いたら、おばあちゃん喜ぶよ。直接聞かせてあげたかった」 「あと、おまえとよく似てるし……それに普段からよく笑う人なんじゃないか?」  目尻のしわの深さを指摘すると、ミノリは「ハルらしいね」とうれしそうに目を細めた。 「認知症になると笑えなくなる人も少なくないらしいんだけど、おばあちゃんは毎日よく笑ってるんだって。逆にこちらが元気をもらうぐらいなんですよ、って」  次の写真へと画面が切り替わっていく。 「ハルは被写体を本当によく見てる。特別ハル自身は意識してなくても、被写体にとってのベストをハルはずっと観察してる。感情で先走っちゃう俺とは大違いだ」 「そんなことは……」  ハル、と遮られた。おずおずと目を合わせれば、ミノリは首を横に振る。

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