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第五章 さようならへの招待状 2-3
「だからこそ、ハルの撮る世界は美しいんだ」
そんなふうに誰かに評価されたのは初めてのことだった。
カメラを握り始めた子どものころは手放しで褒めてくれた両親も、今ではもうなにも言わない。カメラを専攻していた大学時代も「なにを撮りたいのかも、なにを訴えたいのかわからない」と評価され続けた。
ミノリのように賞レースで勝ち抜いた経験もなく、夜野さんの真似事すらしていた俺に、個性なんてものは金輪際手に入らないものだと思っていたのに。
ミノリから注がれるものは、俺にとってあまりに多すぎる。
「……前に、俺の写真を好きだって言ってくれたの覚えてるか?」
カーソルの動きがぴたりと止まった。
「もちろん」
「今も、好き?」
「うん。好き」
「……そっか。おまえに好きって言ってもらえるなら、うん、頑張れそうだ」
「トレモロ」の二次会パーティーの撮影、引き受けることにしたから。ひと息に告げるとミノリは自分事のように喜んだ。
ともちゃんからの誘いを受けるかどうか迷っている。いつだったか酒の力を借りて、ミノリにこぼしたことがある。そのときのミノリは俺の背中を押すことも、無理だなんだと否定することもなく、うんうんとうなずくばかりだった。
聞き流されているのかすら思ったが、どうやら違ったらしい。
「その仕事、ハルにすげえ合うと思ってた。特に結婚式のパーティーなんて分刻みでハプニングとか笑いが起こるから、観察力がないとシャッターチャンス逃しまくるし」
「でも俺はゼロからのスタートだ。依頼が来るまでにポートフォリオとかSNSとか、アピールできるものを少しずつでも用意しないとって思ってる」
体裁を整えたスタジオ勤めならまだしも、無名で実力もないフォトグラファーなんて誰も求めない。ともちゃんたちの恩に報いるためにも、まずは自分が出来ることから始めていくべきだ。
依頼が来たら、依頼者である二人に掲載許可をもらってSNSに投稿していくのも有りだろう。
最初は一枚きりで始まるアカウントも、やがて積み重なれば唯一無二のポートフォリオになっていく。
「いいなあ。ハル、なんか楽しそう」
「楽しそう?」
「目がきらきらしてる」
それはミノリのほうだろう。パソコンから漏れる光を浴びてなお一番星のように輝く瞳は、写真の中の祖母と瓜二つだった。
互いにあくびが出たところで、俺たちは再びベッドに舞い戻った。すぐに眠れるかと思ったが、やはり上手く寝つけない。
どうやらそれはミノリのほうも同じらしい。
ミノリの韓国滞在はたったの一週間。割り切ってはいても、さみしさはごまかせない。
何度もミノリが寝返りを打つたび、底冷えのする室内に衣擦れの音が響き渡る。
「寝ないのか」
ミノリのまぶたがゆっくりと開く。
体ごと俺へと向き直ると、窓から差し込む仄白い月明かりがミノリの顔の陰影を深くした。
「寝て起きたら、ハルとお別れしなきゃいけないのかあって思うとちょっと……」
目の前の胸に顔を寄せると、強く、痛いぐらいに抱きしめられた。
「ねえ、ハル」
やがて聞こえてきたのは、夜の空気にも似たしんみりとした囁きだった。
「ハルといると毎日が楽しいよ。でも最近はちょっとだけ苦しい。自分が写真にのめり込んでいくほど、この苦しさは強くなっていくんだと思う」
「どうして」
「……俺はいつかきっと、ハルといる大切な時間を少しずつ犠牲にしながら写真を撮るようになると思うから」
昔からそうだった、とミノリは語る。
朝から晩まで砂浜に這いつくばって海を撮ったり、キャンピングエリアにテントを張って、山の呼吸に合わせた撮影を何日も続けて行ったり。お金さえ続くなら、世界を飛び回っていたいと夢見たことすらあるという。
どれほど周囲に引き留められるような環境に身を置こうとも、カメラさえあれば苦に思うこともない。
ミノリの話を聞きながら、たくさん想像した。
世界を飛び回るミノリ。
カメラを呼吸のように扱うミノリ。
俺のことを忘れて、写真に没頭するミノリ。
これが本来のミノリの姿というなら、むしろそうであってほしいと願ってしまう。
でも願えば願うほど、いつまでミノリを俺のところに繋ぎ止めておけるのかわからなくなる。
そこまで考えて、今度は自分自身のことがわからなくなった。
欲しいと強請るだけでは飽き足らず、繋ぎ止めたい、とまで思うのは人生で初めてのことだ。
――ダメな子だね。
久しぶりに夜野さんの言葉が浮かんでくる。
いつからか俺は自分を叱りつけるとき、この言葉を手近な罵倒として借りているのだと気づいてしまった。
「ハルと離れるのは嫌だ。でも――」
言い淀むミノリの言葉尻を奪うように、わかってるよ、と切り出す。
「遅かれ早かれ、ミノリは俺を撮るだけじゃ満足できなくなる気がしてた。いろんなものを撮影してたら、俺といる時間は少なくなる。そんなの、当然のことだろ」
自分の服を強く握りしめる。ミノリが息を鋭く吸い込み、俺の目を見ることなく口を動かした。
「俺に嫌気が差したら、そのときは俺を捨てて幸せになってよ」
「はあ? なんだよそれ。面白くない冗談はやめろ」
笑ってみせたが、痩せ我慢に過ぎない。俺がミノリを捨てて得られる幸せなんて、今は想像したくもなかった。
「おやすみ、ハル」
俺の額に触れた唇は、作り物めいたように冷たかった。
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