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第五章 さようならへの招待状 3-2
スパイシーな香水。
腹の奥底を震わせる、落ち着いた声の響き。
とん、と俺の左肩に乗った手は、やがて腕から指の先へと滑り落ち、俺の手の中にいる一眼レフをなぞった。
さっきまであった『トレモロ』の雑音が瞬く間に遠ざかり、フィルターをかけたように思考がざらついていく。
ずっと好きだった右頬のえくぼが、今日は見えない。浅い笑い方。
「夜野 、さん」
心臓が、止まりそうだった。
「久しぶりだね」
伸びた髪をひとつにまとめ、フォーマルで細身のスーツに身を包んだ夜野さんはいつも以上に洗練された大人の男の雰囲気をまとっていた。
彼の人間性にもカメラの技術力にも、骨の髄まで魅了されて肯定することしかできなかったあのころの感覚が、残酷なまでに俺から体温を奪う。
視界が、大きくうねった。
おもむろにふらつく体を夜野さんに支えられそうになり、俺はすぐに身を引いた。すると夜野さんは傷ついたようにぎこちなく笑ってみせる。
「どうして、ここに」
訊ねたそれは、惨めなぐらい掠れていた。
「新郎側の招待客なんだ。申し訳ないことに随分と遅れてしまったんだけど」
――もともと間に合うかどうかわからないって言われてたのを、僕が無理に誘った人なんです。
――なんでも今は、新しいフォトスタジオのオープン前だから多忙みたいなんですよ。
新郎の言葉と現状が、がちりと噛み合う。
新郎のサークルの先輩。夜野さん。そして俺の、元恋人。世間の狭さをこうも実感する日が来るなんて。
「春輝のほうはどうしてここに?」
「俺、は……二人から依頼を受けて、ここでスナップ撮影を……」
つい、しどろもどろになる。
やりたいこと、やりたくないこと。はっきりとした自己主張が彼の前ではできない。
最後に明確な自分の意思を伝えたのは、夜野さんのもとを離れると決めた日だったはずだ。
――スタジオ、辞めます。
それだけを残し、夜野さんの返事を待たずして飛び出した。
あまりに不義理な行いだとわかっていながらも、当時の俺にとっては精一杯の義理立てだった。
「スナップ撮影か。それはフリーランスとして?」
夜野さんが俺のカメラを見ながら言う。
「……違います。本職は別にあって、休みの日に撮影ができたら、って今は副業みたいなもので」
「ああ、それは大変だ。将来的でもいい、写真一本に絞る気はないのか?」
「あの、まだそこまでは……」
「春輝にならできるだろう? 生半可に君に技術を教え込んだわけじゃない」
「でも俺は、今を大切にしたいんですよ!」
咄嗟に、声を荒げていた。本当に自分の内側から飛び出した言葉なのか、それすらも最初はわからなかった。
歓談に熱を灯した店内は、誰一人として俺たちのほうを見ていない。ただ驚いた顔の夜野さんだけが、その事実を肯定していた。
「そうか」
下手すれば、店内の飽和した雑音に飲み込まれそうなほど、夜野さんの声は小さい。
「春輝は、頑張っているんだね」
その返事は、ひどく意外なものだった。俺のやりたいことを認めてくれるなんて、今までなら天地がひっくり返ってもありえないことだ。
夜野さんのほうも珍しく視線をさまよわせ、どこか戸惑っているようにも見えたのは、俺の勘違いだろうか。
「あ、夜野先輩! 間に合ったんですね!」
天井を突き抜けるほどの大きな声が、俺たちの間に漂っていた沈黙を切り裂いた。
ビールグラスを片手に新郎が大きく手を振りながら、受付を無事終えた夜野さんのほうへと歩いてくる。酔いがかなり回っているのか、その顔は驚くほど真っ赤だ。
「遅くなって申し訳なかった」
「いえ、忙しいってわかってましたから。ここに来てくれただけで充分ですよ。そのかわり三次会来てください。僕の友達が計画してくれてるみたいなんで」
「わかった、わかった。相変わらず君は強引だな」
新郎と夜野さんが抱き合う。再会の喜びだけに満ちた潔い抱擁だ。
ワンテンポ遅れて、レンズを向ける。シャッターを急いで切ったが、モニターで確認しなくともピントが甘くなった自覚はあった。
「宮永さん。このまま先輩とツーショット撮ってもらえませんか?」
「は、はい、もちろん」
新郎が夜野さんと肩を組む。
息を吸った瞬間に、呼吸を止める。手ブレを極限まで抑え、親密に並んだ二人の顔にピントを当てた。
ああ、そういえば。こうやって呼吸を止める癖は、夜野さんから盗んだんだ。
「オッケーです」
俺が合図を出すと、新郎は夜野さんから距離を取りつつもすぐにその場を去ろうとはしなかった。
「ほら、先輩行きましょう。サークルのやつら、夜野先輩が来るの待ってたんですよ」
「わかった。コートをお店に預けたらすぐ行くよ」
夜野さんの言葉にうなずき、新郎が再び人の輪の中へと溶けていく。
新郎の姿を目で追っていると、しばらくしてから夜野さんが俺へと向き直った。今度は身構える隙すら与えられず、気づいたときには夜野さんの顔が俺の耳元にあった。
「また連絡するよ。必ず」
夜野さんが遠ざかっていく。
突然店内の真ん中でわっと歓声が上がる。
新郎が新婦の頬に満面の笑みでキスをした瞬間のことだった。
パーティーが終わると、俺は新郎新婦とともちゃんに簡単なあいさつだけして、店をすぐ後にした。
ちょうど駅のホームに侵入してきた電車に飛び乗り、最寄り駅で降りてからはひたすら早足だった。
乱れた息を飼い慣らせないまま、カメラバッグに押しこんでいたはずの鍵を玄関の前で探した。
手が小刻みに震える。なかなか鍵も見つからない。
これがあいつならもうとっくに見つけ出していたかもしれないな、とこんなときに限ってミノリの顔がよぎる。
猛烈な勢いで会いたくなった。
でもあいつはまだ異国の地だ。
乾いた笑いをコンクリートに吸いこませながら、ゆるゆるとしゃがみこんだ。
もう一度バッグの中に手を伸ばした瞬間、スーツのポケットに入れっぱなしだったスマホが震えた。甘い匂いがして、でもそれはすぐに『トレモロ』で染みついた酒の匂いだと気づく。
スマホの画面は、夜野さんからの受信を知らせていた。
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