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第五章 さようならへの招待状 4-1
『トレモロ』での撮影の翌朝、洗面所で鏡をのぞくとひどい惨状だった。
濡れたまま寝たせいで爆発した髪に、うっすらと浮かんだ目の下のクマ。おまけに口の端が切れて、ちょっと動かすだけでぴりっとした痛みが走る。
今日はミノリが日本に戻ってくる。
俺が寝ついた後に「早く会いたい」とミノリからメッセージが一通送られてきていた。
今から恋人に会う顔じゃないな、これ。
泥をまとったように重い体を引きずり、シャワーを浴びて身支度を整え、ミノリからの次の連絡をソファーベッドの上でしおらしく待った。
しかしミノリからの返事はなかなか来なかった。昼前には「成田空港に着いた」と連絡があったが、それっきり。
以降音沙汰がないままミノリが俺の家にやってきたのは、二十一時をとうに回ったころだった。
「メモリーカードに大事なデータ入れっぱなしにしておくのが怖くて。ひと通り会社のパソコンに取り込んで、ついついデータチェック始めちゃって、この時間になった」
玄関の隙間から顔を覗かせながら、ミノリは開口一番に言う。
ミノリの頬は寒さですっかり赤らんでいて、一日中暖房の効いた部屋にこもっていた俺との温度差を思い知る。
寒かったよな。撮影、大変だっただろ。気の利いた言葉はいくらでも浮かんだ。でもそのどれもが空々しく、俺の中からすり抜ける。
結局手元に残ったのは粘度と湿度がどろどろに混ざった、自分本位な感情だ。
「心配、してた」
知らずのうちに張り詰めていたのか、針を刺した風船のように体から力が抜け落ちそうになった。
「事故に巻き込まれたのかもって……」
「そうだよね、もっとちゃんと連絡するべきだった」
ごめん。肩を丸め、縦に長い体がやけに小さく縮んだように見えるほどのしおらしい態度は、重罪でも犯したのかと思うほどだ。
「やっぱり、怒ってる?」
ミノリの問いかけに、つい黙ってしまう。相手を責めたい気持ちがわずかにでもあるから、余計に言いたくなくなる。
――俺はいつかきっと、ハルといる大切な時間を少しずつ犠牲にしながら写真を撮るようになると思うから。
先日ミノリから受けた予言が、もうずっと頭の片隅から消せない。
きっとなんとかなると思いたかった。
でも、本当にどうにもならなかったら?
ミノリが俺のことを完全に忘れて、今日会いに来なかったら?
俺のほうからミノリを捨てたくなる日が来るなんて考えたくもないのに、昨夜からどうにも足元がぐらついてる。思考までつられて、スライムみたいに不安定だ。
「ハル。もしかして、ほかにも何か言いたいことがあるの?」
我に返り、慌てて顔を上げる。長く黙り続けた俺を見つめるには、あまりにやさしいまなざしを携えたミノリがそこにいた。
「……お腹空きすぎて、不機嫌になってるんだよ」
申し訳ない気持ちとは裏腹に皮肉っぽく答えるとミノリは、え、と驚きの声をあげる。時間も時間だ。とっくに食べ終えていると思っていたんだろう。
「おまえのこと待ってちゃダメだったのか?」
「そんなことない。ありがとう、待っててくれて」
ミノリの肩を叩いて促し、二人で冬空のもとへと繰り出した。
遅くまでやっている徒歩圏内のラーメン屋で腹を満たした後、甘いものが食べたいというミノリの要望に応えて俺たちはコンビニへと寄った。
ミノリが長考する間、店内を意味もなくうろついた。悩み出すとミノリは長い。しびれを切らし、最後は俺からスイーツコーナーにいるミノリを迎えに行った。
「決まったのか?」
「待たせてごめん。まだちょっと……」
「迷ってる?」
「うん」
大盛りのラーメンを食べたばかりなのもあって、ケースに並んだケーキたちは見ているだけ胃もたれを起こしてしまいそうだった。
「ミノリの胃袋って元気だよな」
呟くと、そうかな、とミノリが商品を見つめながら苦笑する。
「本当はアイスにしておこうかなって思ったんだけど」
「この寒いのに?」
思わず、店の外を見た。
白く発光した店内の照明が、夜を歪に押し返している。ここまでの道すがら、分厚い脂肪のように膨らんだ雲に空が覆われていたのをふと思い出した。
「俺、アイス好きだよ。夏に食べるのも、冬に食べるのも好き。こたつに入りながら食べるのもいいし」
「俺もおまえも、家にこたつないだろ」
「だよね。さすがに今日は寒すぎるし、こっちにしておこうかなあ」
ミノリが指さしたのはいちごの乗ったショートケーキだ。もうじきクリスマスがやってくることもあってか、毎日工場生産されているだろうそれは、プラスチックの容器に二切れ分が窮屈そうに突っ込まれている。
「ケーキならいちごのショートケーキが一番好き」
「そう言うと思った」
ミノリの隣で、つい笑う。
冬が近づくにつれて、いろんな店でいちごを使った商品が並ぶ。気にもしなかった日常を改めて意識するようになった自分がいる。
一人きりのランチ。眠る前のベッドの中。なんとなくぼうっと頭を働かせ、わずか先の未来を考えるとき。そこにはミノリの気配がいつも混ざった。
ずっと一人分だった思考に、もう一人分。たまに考えることが多すぎて容量を超えてしまうが、ミノリの存在は着実に俺の内側をものすごい勢いで侵食していく。
「誕生日とかクリスマス以外に食べたことないな、こういうの」
「へえ、そうなんだ」
「おまえは違うのか?」
「俺はなにかと理由つけて食べちゃう派。仕事の大きな山を乗り越えた記念、とか。納期に余裕持って終わらせられた記念とか」
「なんだよそれ。それじゃあいつか記念日だらけになるだろ」
笑っていると、ハルはどうなの、とすかさず訊ねられる。
「俺は、あんまり」
商品を品定めしていたミノリの熱っぽい視線が、言葉を発した俺に向けられた。
「そもそも小学校を卒業したら、記念日にケーキ出してまで家族に祝われなくなった。おめでとうの言葉ぐらいはあったと思うけど。なんかそこから俺の中から食べる習慣がすっぽりなくなった感じ」
ミノリは驚いたような、だけどわずかにさみしさを混ぜたような複雑な顔をして、ショートケーキの容器を大事そうに手に取った。
「ハルがケーキを大して好きじゃなかったから、家族も遠慮したとか?」
「まあ、それもあるかもな」
家族の生歌バースデーソングでデコレーションされたケーキより、その前に食卓に並ぶからあげやポテトのほうにがっついていた記憶しかない。
だからって家族間で不当に扱われているわけでもなく、ごくごく普通の、それこそ俺が行きたいカメラ専攻のある大学を奨学金なしで面倒みてくれるような両親だった。
あまりに平穏だからこそ、家の中で波風を立てたくない。
ゲイだとカミングアウトすることもなければ、夜野さんの件で落ちていた時期はともちゃんたちとしか連絡を取らなかった。
「けど特別嫌いでもないんだけどな」
「じゃあ、今日は一緒に食べよ。ちょっとハルに祝ってほしいこともあるから」
ミノリが意気揚々とレジに向かっていく。自分の腹を撫でながら生クリームのことを思えば、それだけで胸やけしそうだった。
「そうだ、ハル。コーヒー飲むよね?」
会計をしながら、ミノリが振り返る。
まるで頭の中を覗かれたかと思うようなタイミングのよさだ。無言でうなずけば、ミノリは「了解」と口を動かして店員に向き直った。
出入り口付近でミノリを待っていると、コートのポケットに入れたスマホが短く震えた。
メッセージが一通。画面には「夜野さん」の文字。
「ハル、お待たせ」
コーヒーの匂いが鼻腔をくすぐり、どっと心臓が跳ね上がる。咄嗟にスマホをポケットに突っ込んだ。
しまった、不自然だったか。そろそろと顔を上げれば、不思議そうに首を傾げたミノリが立っている。
「……なんかあった?」
喉元に刃物を突きつけられている気がして、言葉がすぐに出てこない。
自動ドアが開いて、新たな客がコンビニに入ってくる。出入りの邪魔になる位置で立っていた俺たちを怪訝そうに見ては、大股で通り過ぎていく。
客が連れてきた外の乾いた空気の冷たさに、淀んだ思考が弾かれ、ようやく喉を震わせる。
「別に。なんでもないから」
「そっか。なら、いいけど」
ミノリはわずかに目を伏せながら、オニキスのピアスをそっといじった。
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