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第五章 さようならへの招待状 4-3
「やっぱりなにか言いたいことあるんじゃないの? 言ってよ。ちゃんと聞くから」
「……俺、は……」
言おうとした。だけど喉から出ていくのは、悲鳴のようにか細い息ばかりだ。
戸惑いを乗せてもなお透き通るミノリの瞳を前にすると、俺から生まれるものはことごとく不正解にも思えた。
「ねえ、教えて」
ミノリとの未来を思い描くたびに、どうしてこんなにも自分が重い存在に成り果てていくのか。
――俺を、捨てないで。
――俺を、置いていかないで。
そんなこと、軽やかなおまえに言えるはずもないのに。
「いちご。俺にちょうだい」
わだかまりを振り切り、ミノリの手首を強引に引き寄せた。
フォークに刺さったままのいちごを、勢いよく口に含む。かさぶたになっていた口角がまた割れて、痛みが走った。
生クリーム混じりのそれはやたらと酸っぱい。食べたことをほんの少し後悔した。
「おめでとう。ミノリは、すごいよ」
きれいに笑えていたらいい。そう願いながら、なんとか口にした。
「個展、見に行くから」
するとミノリは泣き笑うような表情をして、深く首をもたげてしまう。
「ああ、もう、めちゃくちゃ悔しい」
「なんでだよ」
「今のハル、シャッターチャンスだったから」
「そっか。残念だったな」
「なんでそんな他人事なの」
ねえ、撮りたい。ミノリが距離を詰めてくる。俺の手に指を絡ませ、祈りを捧げるように手を繋ぎ合った。
「ケーキを食べながらでも、いいなら」
「うん。いいよ」
「あと……」
「あと?」
「ミノリがずっと手を繋いでいてくれるなら、いい」
片手で撮れるかな、とミノリがほほ笑みをこぼす。
ハードルは高いほうが燃えるのか、両手を使えないかわりにベンチに膝を立て、それを抱きかかえるようにして脇と腕を固定する。
苦肉の策。それでも俺を撮りたいらしい。
「ケーキ食べてるハルって新鮮だ」
カシャリ。シャッターが閉じていく。ケーキを減らすたびに、何度だってミノリが俺を撮る。
ミノリの情熱が俺の限りある体へレンズ越しにどっぷりと注がれていく。なんとか立ち直りつつある中途半端な俺では、純度の高いミノリの熱をまだきちんと受け止めきれない。
もうずっと苦しくて溺れそうだった。
繋いだ手にきつく力を込めると、カメラから放たれる全ての音が不意に止んだ。
ミノリの目がファインダーではなく、俺に向けられている。
生命の活動を終えたような静寂が、二人きりの公園に満ちていく。
「撮られるのが苦しいなら、無理しなくていい」
俺たちの間に横たわる沈黙を、ミノリが先に破った。
「無理なんてしてない」
「うそばっかり。そうやって我慢して、自分の気持ちを抑えるのが癖になってる」
小さく頭を振った。動くたびに髪からはらはらと雪が散って、過ぎた時間の長さを教えてくれる。
「使わなきゃいけないんだよ。声も心もちゃんと使ってやらないと、ほこりをかぶって動かなくなるから」
正論だ。でも、正論を振りかざせるほど俺は強くない。
なにも言い返さない俺に、ミノリはやがて焦れたように苦笑うと腕の中へ俺を閉じ込めた。
触れたミノリの肌はびっくりするぐらいに冷たい。抱きしめ合うことが必然のように思えてくる。
「ねえ。好きだよ、本当に。疑われるかもしれないけど、俺、本当はハルを幸せにしたい」
誓いを立てるように、ミノリが耳元で紡いだ。
「俺、撮りたいのにずっと撮れないフリを続けてきた。撮れない現状を諦めることで自分を保ってた。でもハルがそばにいてくれるだけで、俺はフリをしなくてよくなる。恩返しなんて言うと変だけど……だからこそハルには辛い思いをさせたくない」
頬に唇が触れる。わずかに顔を離すと、正面から俺を見据える。ミノリは目を柔和に細め、労わるように俺の裂けてしまった口角を指先で触れてきた。
「ハルは俺のこと、好き?」
「当然だろ……好きだよ」
ミノリの心臓をめがけて、額をぐっと押しつける。
やさしさだけでは世界は救えない。でもミノリのやさしさは確実に俺を救う。
そんなミノリを好きになるのは時間の問題でしかなく、最後の恋の相手はミノリがいいといつからか思っている。
そのために、今の俺ができること。
強くなりたい。
もっと、今より強く。
息を潜めながら、切に願った。
*
そのままミノリは俺の家に泊まることになった。
海外撮影での疲労もあったのか、俺と一緒にベッドに入るとものの数分で寝入ってしまった。
妙にざらつく思考のまま、すうすうと健やかな寝息を奏でるミノリの姿を一瞥し、暗闇の中でスマホを手に取る。
コンビニで受信した、夜野さんからの新着メッセージ。ミノリに声をかけられて、今の今まで未読のまま放置していたものだ。
ふうと息を吐いて、メッセージアプリを立ち上げる。
会いたい。
昨夜から続く夜野さんのメッセージを要約すると、その一言に尽きる。
今更会ってなにをどうするんだ。現に、俺がスタジオを飛び出してから二年間、向こうからはなにもアクションを起こしてこなかったのに。
でも昨夜の二次会パーティーの帰りに届いてから、ずるずるとここまでやり取りを続けてしまったのは、逃げるように夜野さんのもとを去った過去を悔いているからだった。
ちゃんと会って、話す。
清算して、今度こそ終わりにする。
ミノリが過去と向き合う以上、俺だって向き合いたい。
恐々と返事をするうちに、日にちが決まる。すぐにレスポンスがある。待ち合わせの時間が決まり、さっきのメッセージで場所も確定した。
あとは俺が承諾するだけになった。たった数文字、スマホに打ち込んでしまえば、それで。
「……っ!」
ミノリが寝がえりを打つ。腕が俺の体にかぶさってくる。
思わず手から落としそうになったスマホを、今一度握りしめた。
ミノリの静かな寝息が部屋に満ちている。
何事もない部屋。
いつもの日常に差し込む青白いスマホの光だけが、怖いほどまぶしい。
心臓を宥めながら、素早く返事を打ち込む。そうしてミノリの体温で暖まった布団に、呼吸ができるわずかなスペースを残して、深く深く潜りこんだ。
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