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第五章 さようならへの招待状 5-1
店員に案内された個室へ入ると、すでに夜野さんは着席して待っていた。
「時間ぴったりだね」
どうぞ、と夜野さんが向かいの席を示す。
神楽坂の路地裏にある、和食フレンチの店が今回指定された場所だった。
見るからに洒落た、重厚でモダンな内装。明度の低いオレンジ色の照明。
個室の外に漂う気配はおだやかだ。安い居酒屋でよく見かける、羽目を外しすぎた客なんかは一人もいない。
「香水、今日はつけてないんですね」
「食事を楽しめないからね。君と付き合ってたときからそうだったよ。もう忘れた?」
覚えてますよ、まだ。言えない代わりにぎこちなく笑ってコートを脱ぎ、寒さで凍えた体を椅子に預けた。
「春輝のスーツ姿なんて見たのは、大学の卒業式ぐらいだったのにね。この間の二次会といい、今日もまたお目にかかれるとは思わなかった」
「仕事終わって、そのまま来ましたから」
「ああ。本業の。それは疲れたね。美味しいものでも食べて、その疲れを少しでも癒すといい」
コース料理を予約したと聞いている。メニュー表は見ていないが、きっと値が張る。
夜野さんが俺を外食に連れ出すとき、決まって彼は機嫌がよくて、店はいつも少し気後れするようなところばかりだった。
「今日は飲む?」
「いえ、あの俺は……飲みにきたんじゃありませんから……」
「春輝」
視線だけで気圧されてしまい、はい、と反射的に返事をする。
「付き合ってくれるとうれしい」
首筋に嫌な汗が浮かんだ。ネクタイをゆるめながらも、流されるがままうなずいてしまう。
結局、ミノリには夜野さんに会うことを切り出せなかった。
毎日忙しなく、そして熱心に写真を語るミノリに今更水を差したくはないと、嘘をつく自分を正当化しながらここまで来てしまった。
だからこそ今日で全てを洗い流す腹積もりだったのに、初っ端から夜野さんに挫かれてしまっている。
「懐かしいな」
店員に赤ワインの注文をした後、夜野さんはつぶやいた。
「春輝と初めて会ったゲイバーでもそうだった」
「なにが、ですか」
「お酒を奢ろうとしたら、断られた。飲みにきたんじゃないんで、ってなんだかそっけない態度でね」
大学の講義の帰りに立ち寄った、人生で初めてのゲイバー。自分のままでいられる場所に初めて足を踏み入れた当時の俺は、とにかく気分が悪くなるほど緊張していたのを覚えている。
ソフトドリンクを睨みつけながら佇んでいる俺に、最初に声をかけてきたのが当時の夜野さんだった。
「脈がないなと思ったけど、どうしても春輝の目が忘れられなかった。だからさっさと店を出ていこうとする君を呼び止めて、連絡先を聞き出した。そんなみっともない真似をしたのは、君が初めてだったんだよ」
相槌すら打てない。そんな話、付き合っているときには聞いたこともなかった。
連絡先を交換した後、夜野さんからアシスタントのアルバイト募集の話を聞いて思わず飛びついた。
そこからはもう彼のなさがままだ。
いつだって余裕たっぷりで、だからこそ振り向かせたくて、大学を卒業してからも彼のスタジオにしがみつき、告白だって俺の方からだった。
店員がやってくる。丸みを帯びたグラスにワインを注ぐと、すぐにまた二人きりに戻される。
夜野さんは俺と視線を合わせ、乾杯しよう、と静かに言った。
「そういえば見たよ。春輝が撮る、今の写真」
やがて色彩豊かな季節のオードブルがテーブルに並ぶころ、夜野さんが世間話をするようにそっと切り出した。
いったい、どこで。舌に残るワインの渋みを堪えながら、小動物のように耳をじっと傾ける。
「つい先日、あいつに納品しただろう?」
思い当たるのは、例の二次会パーティーだ。夜野さんと会う二日前、あのときの新郎にセレクトし終えたデータを納品したばかりだった。
ポートフォリオとしてSNSへの掲載許可をもらい、そろそろ自分も投稿しようと思った矢先のことだ。まさかここまで早く共有されるだなんて、と自分の選択一つ一つに後悔の念が混じる。
「すごくよかったよ」
夜野さんの言葉が鼓膜を揺らした瞬間、店員が料理を抱えて入ってきた。テーブルに並べ、つらつらと料理の説明をすると、入ってきたときと同様にそつのない動きで出ていった。
「でも僕の好みの美しさじゃない」
たくさんの小鉢に盛られた繊細な前菜が、急速に色を失っていくようだった。
この店に連れて来てくれたということは、夜野さんにとって、この料理は美しく、おいしいはずだ。なのに全然、おいしそうに思えない。
「欲張りすぎているんだ。全部を丁寧に拾おうとしすぎている。僕のところにいたときはもっと上手に被写体の選択ができていたけれど……僕以外の誰かに影響でも受けたのかな」
記憶の波間から浮かぶのはミノリのことだった。
――自分が好きと思ったものを撮ればいい。
ミノリほど祖母の教えを歪みなく体現する人は、きっと後にも先にも現れないだろう。単純に売れるものを求められる業界で、自分のセンスを信じ抜くことの難しさは、何かを生み出す側の人間しかわからない。
それでもミノリは再び立ち上がった。
たくさんの傷をひた隠しながら、笑って、シャッターを切る。
見た者に幸福の存在を気づかせる。
そんなミノリを、ほんの数か月だとしても誰よりも近くで見てきた。ミノリの心のひだから生み出されていく写真たちに、フォトグラファーをおなじく志す者として影響を受けないはずがない。
「もしかして春輝は今、誰かに恋をしているのかな?」
いつしか膝の上で拳を作っていた。夜野さんの口はまだ淀みなく動いている。
「春輝。無言は肯定だよ」
夜野さんは一瞬どこか遠くを見るような顔をして、でもすぐに右頬に小さなえくぼを作った。
「やっぱり一度離れてしまうと、君の中の僕は薄まってしまうんだね。でもこれで僕の方針は決まった」
「……方針?」
「僕のスタジオに戻ってきてほしい」
唐突な誘いに、頭が真っ白になる。黙ったままでいる俺を前に、夜野さんはゆっくりとした動作で肘をつく。
「スタジオに所属しながら、今みたいにスナップ撮影の仕事を副業にすればいい。収入も安定したまま、好きなことだってできる。悪い話じゃないだろう?」
「どうしてあなたはそこまで……」
「春輝が出て行ってから、たくさんの人間をそばに置いた。でも『贋作』として僕の作品を再現してくれるのは、君しかいなかった。僕を超えようとするのはいただけないけど、君の存在はとても貴重だと気づいたから……多少は目を瞑ろうかと思い直してね」
肘をついた反対の手で、夜野さんがワイングラスを手に取った。
ひと口分のワインを嗜んだ後、苦々しい顔つきで放たれた言葉は、俺の頭を殴りつけるには十分だった。
「他所から受けたその妙な影響も、今ならまだ修正できるだろう」
「そんな言い方!」
衝動的に立ち上がっていた。
ミノリの笑顔が脳裏でよぎる。しかし次の瞬間にはぶつかり合った食器たちの騒々しい音が残像をかき消して、再び俺は一人きりになる。
ばたばたと足のつくプールの真ん中で不様にもがいているような気分のまま、夜野さんに立ち向かう。
「妙なんて……言わないでください」
許せなかった。
ミノリをまるでノイズのように決めてかかる、夜野さんの発言がどうしても。
煮詰まった鍋のように、腹の奥からふつふつと込み上げるのは怒りそのものだ。
「春輝」
グラスを置いた夜野さんと、真っ向から視線がぶつかる。美学に反する者を見る、冷ややかな目だ。
「座りなさい」
一段と低い夜野さんの声に、びくりと体が跳ねる。
「荒々しく席を立つなんて……君は本当にダメな子だね」
途端、感情の間欠泉が閉じていく。
俺がどれだけ主張しようとも、いつだって夜野さんは眉ひとつ動かさない。
俺の存在は彼にとってそよ風にも等しく、今更声を荒げたところで虫の吐息程度のものだ。昔から、ずっと。
犬さながらに、力なく着席した。テーブルへと投げ出した自分の手に、夜野さんの大きな手が重なる。
あまりにやさしい触れ方はかつて恋人だった俺へ与えられていたものなのに、肌が毛羽立ったように馴染めない。
「恋をしていなくても、僕たちは写真を撮れる」
右頬のえくぼが、浮かび上がる。
「でも素晴らしい写真は、磨きをかけなければ撮れない」
もう片方の夜野さんの手がジャケットの内側から一枚のハガキを取り出した。
「……招待状?」
白い壁を基調とした建屋の写真、そして『invitation』と書かれた流線的なフォントがポストカードサイズの用紙にバランスよく収まっている。
「新たなフォトスタジオが、この二月にオープンするんだ。初日にはパーティーをする予定でね。そこに春輝を招待したい」
「俺は……」
「返事はすぐじゃなくていい。今はちゃんと考えて、パーティーの日に返事を聞かせてほしい」
漠然とハガキを眺めることしかできない俺に構うことなく、夜野さんはつらつらと話し続ける。
「恋のお相手も連れてくるといい。ちゃんとしたスタジオで春輝が再び働けることを知ったら、その彼もきっと安心する」
夜野さんの手が静かに俺から離れる。ひりつくような感覚だけが皮膚に残されて、反論すらできない自分の不甲斐なさを責め立ててくるようだった。
「さあ、食べようか。残してはお店に失礼だから」
ワイングラスをおもむろに手に取り、残りを一気に飲み干す。おかわりは。そう訊ねられたものの返事をする間もなく、夜野さん自ら俺のグラスにワインを注いでくれる。
新たに注がれたワインの量は多く、夜の長さに気が狂いそうだった。
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