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第五章 さようならへの招待状 5-2

 くそ、飲みすぎた。  ワインの度数の高さを失念していた。ようやくコース料理の最後であるデザートとコーヒーに至ったときに許容量をとうに超えた後で、席を立つときにひどい浮遊感に苛まれた。  駅まで向かう道の途中、何度か夜野さんに「タクシーで帰ったらどうか」と訊ねられた。言うことを聞けば、夜野さんと相乗りする流れになっていたはずだ。  それだけは、嫌だった。  頑なに「電車で帰ります」と突っぱね、夜野さんを乗せたタクシーが東京の夜に溶けていくのを駅前で見送った。  テールランプが見えなくなるころ、ふらつく足取りでタクシー乗り場から距離を取る。  何気ない気持ちで空を見上げた。  繁華街の派手な光。高すぎるビルに阻まれ、夜空には月すら見えない。  俺が月を見失っているように、月から見れば俺という人間はあまりにちっぽけで、いてもいなくても大差のない存在だろう。  壮大なものと自分を見比べると、ぐるぐると悩んでいるのがひどくバカバカしいものに思えてくる。なのに生きている限り、大小様々な悩みはきっと尽きない。  悩んだ分、人は削られていく。なにかで補わないと、あっという間に動けなくなる。  昔の俺なら補うために、夜野さんの名前を挙げることもあっただろう。  でも今は違う。  いつからかコートのポケットの中で握りしめていた拳をゆっくりと解いた。その流れで、スマホをポケットから取り出す。履歴の一番上にある名前に自然と目が吸い寄せられ、ためらわずにタップしていた。  耳にスマホを押し当て、息を潜める。祈るように。  呼び出し音が淡々と繰り返されていく。  焦燥に駆られる俺の前を、駅を利用する人たちが足早に通りすぎる。音色の変わらない呼び出し音が次第に憎くなってきた。  ああ、早く。頼む。出てくれ。  その無関心そうな他人の横顔をいくつも見送ったときだった。 『――はい』  体中の熱が、一瞬にして耳に集う。 『どうしたの、ハル。もう飲み会終わった?』  スマホの向こうで、ミノリの笑う気配があって胸を撫でおろす。  今日は会社の飲み会だから、とミノリには大きな嘘をついてる。この様子だとバレてはいないようだった。 『俺の声、聞きたくなった?』  からかうように、ミノリが言う。つられて笑いながらもミノリの余裕がかえって俺を追い詰め、その場に力なくしゃがみ込んだ。 『そうだよ。ミノリの声、聞きたくてたまらなかった』  素直に吐き出すことで、後ろめたい気持ちをやり過ごす。  数秒間の無音の後、騒がしい物音に続いてミノリの慌てた声がスマホの向こうから流れてきた。 『……どうした? 大丈夫か?』 『ごめん。ちょっとマウスを床に落とした。ハルがかわいいこと言うからびっくりして』 『そういうの、いちいち言わなくていいから。恥ずかしいだろ』 『恥ずかしがってるハルも好きなんだよ。言わずに後悔したくない』  ミノリの飾らない言葉は、俺の心臓を無情に抉る。  うなだれたまま、歩道の目地を見つめていると「大丈夫ですか?」と通りすがりの男に声をかけられた。  気分が悪そうに見えたのかもしれない。飲みすぎただけなんで、と適当にあしらいながら立ち上がり、構内に向かって歩き出す。 『さっきの、誰? もしかしてまだ外?』 『座ってたら、通りがかった人が心配してくれたっぽい。今から電車に乗って帰るよ。それでおまえは? 今、家?』 『あー、俺はまだちょっと、スタジオにいる、かな』  改札を通り抜けながら、腕時計を見る。二十二時を回っている。明らかな残業。 『ちょっと機材トラブルで撮影が押しちゃってさ。でも明日もまた朝から撮影だし、今日の分だけは処理しちゃいたくて』 『もうすぐ終わりそうなのか?』 『うん。それに早く帰って、個展の準備も進めておきたいから』  ミノリの朗らかな声が、空っぽな俺の体内で響き渡った。  地面が波のように揺れ動いている気がして、自分が前に進めているのかどうかすらわからない。  なんとかホームにたどり着く。俺のすぐ目の前で発車のベルを鳴らして電車が旅立っていく。 『なあ、ミノリ』  乗り損ねた乗客はスマホをいじり、酔い潰れた人はベンチに横たわっていびきをかいている。 『ん? なに?』 『今、楽しい?』  足の裏の全部を意識して、ホームを必死に踏みしめた。  恐る恐る見上げた先、ホームの屋根から覗く夜空はさっきと変わらない表情で俺を見下ろしている。 『楽しいよ、もちろん。今が一番楽しい』  弾んだ声。きっと今、陽だまりのように柔らかい笑みをスタジオの片隅で浮かべていることだろう。  なんてほほえましい光景だ。  守ろう。このまま。  ミノリの輝かしい未来を汚すのも、軽やかな歩みに重みを足すのも俺の役目じゃない。  今すぐ甘えてしまいたいとか、今日会ったことを全部ぶちまけて楽になりたいとか、通話する直前まで思っていたどろどろとした私欲は唾液とともに無理矢理飲み込んだ。 『……ごめん。電車来たから、通話切る』 『あ、そっか。気をつけて帰ってね』 『うん。またな、ミノリ』  ミノリの返事を聞き届けることなく、通話を切る。  暗闇を映すスマホを手にしたまま、立ち尽くす俺の前でドアが閉まった。どこへでも行けるのに、俺のほしい答えのもとにはスムーズに連れて行ってはくれないだろうから。  その後も、いくつもの電車を見送った。

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