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第五章 さようならへの招待状 5-3

「そろそろ閉店?」  店の前で立て看板を持ち上げようとしていた男の背中に話しかける。  声ですぐに気づいたのだろう、ともちゃんは振り返るなり怪訝な顔をした。 「もうラストオーダー終わっちゃったんですよねえ。もっと早く来てくれないと」  終電間近の電車に乗り込むと、俺は『トレモロ』に立ち寄った。すでに店外の照明のほとんどが消灯し、残すは玄関付近のスポットライトだけだ。  閉店時間を知らないわけじゃない。でも自然と、自分にとっての安全基地のようなここへ向かっていた。 「じゃあ、帰る」 「待て待て、冗談に決まってるだろ。真面目なおまえがこんな時間に来るってことは、なんかあったに決まってんだから」  俺一人でよければもてなすけど。ともちゃんはしょうがないとばかりに苦笑して招いてくれた。  最後のスタッフが去った後、カウンターにたった一人の客として居座る俺にともちゃんは紅茶を出した。 「俺、コーヒーのほうが好きなんだけど」 「ロシアンティーで我慢しなさい」 「ロシアンティー?」 「ジャムを溶かして飲む紅茶だよ。先週からうちでいちごフェアやってるから、今回はいちごジャムだ。本当ならジャムにウォッカ混ぜるとこなんだけど、今日の春輝にはお子さま用がお似合いだろ」 「なんだよ、お子さま用って」 「アラサーにもなって酒に溺れるようなやつのことだよ。温かいお茶でも飲んで、家帰って風呂入って寝ろ」  しかしよりにもよって、ミノリの好きないちごか。  一向に飲もうとしない俺を見て、さすがに思うところがあったのか、ともちゃんが軽くため息をつく。 「昔から春輝はろくに言わないし、聞き出すのは諦めてるところあるけどさあ。言わないとわかんないこともある、ってのはちゃんとわかっておきなさいね」  着替えてくる。そう言い残し、ともちゃんが店の奥へと消えていく。  スロージャムが流れない『トレモロ』はまるで異空間のようだった。  普段と変わらない内装。しかし音が消えるだけで、それこそ宇宙にでも投げ出されたような、心許ない気分になる。  縋るように、ティーカップを近くに引き寄せた。ティースプーンひと匙分のジャムが添えられていて、どうやらこれを紅茶の中に入れるらしい。  ジャムをゆっくり溶かしていく。スプーンで何度かかき混ぜ、揺れる琥珀色を慎重に口へと運んだ。 「……意外とアリだな」  紅茶の華やかな香りに混じり、甘さと酸味が匂い立つ。紅茶にジャムなんて、と穿った見方をしていたが、飲んでみると違和感もない。  まだまだ知らないことがある。  だけど俺がコーヒーばかりを欲しがるように、慣れ切った世界で生きる方が圧倒的に楽だった。  スタジオに戻れるなら。かつてそう思ったことも何度かある。  どこかで雇われている方が、金銭面の不安は格段に減る。夜野さんに師事することで得られるものはまだたくさんあるはずだが、これまでのことを思えば夜野さんの元に戻るのはあまりにリスクが大きすぎる。  戻れない。  きっちり誘いを断るべきだ。ミノリを連れて。 「春輝、もう飲んだか?」  声がしたほうに視線を向けると、私服に着替え終えたともちゃんが立っていた。 「結構おいしかった」 「たまにはいいよな、新しいものにチャレンジするのも」 「毎月新メニュー考えるのも大変だろ」 「慣れたもんだよ」  でも昔からともちゃんは長くなにかを続けてきたことがない。小さいときにほのかと一緒に通っていたピアノも、体育会系のノリについていけなかった部活も、体力作りのためのジムも。  一番長く続いているのだ、この『トレモロ』が。 「まあ、たまには発狂するよ? で、なんとか試行錯誤して月初めにお出しして、おいしそうにお客さんたちが食べてくれると全ての苦労が報われる。なんだかんだそういうものの繰り返しで、期待に応えたいなあっていつのまにか思えるようになって、気づいたら店が続いてた」 「そういうもんなのか……」 「そう。多分、ミノリならわかる感覚じゃないのかな。『レンタル彼氏』として、あいつにもたくさん客がついてるんだし」  ティーカップをソーサーごと感謝の言葉とともに押しやると、ともちゃんは「どういたしまして」と告げて、キッチンへと片づけに向かった。  『トレモロ』の灯りが落とされる。非常灯の緑に誘導されながらともちゃんの後を追う形で歩く。 「足元暗いから気をつけろな。なんか踏んづけて転ぶなよ」 「子どもじゃないんだから」 「いや、どれだけ慎重になっても、注意を払ってもやるときゃやる。証拠はこの俺。つい先月、真っ暗な店の中で盛大に転んだね」 「なんだ、結局ともちゃんが注意力に欠けるっていうのを含めての自戒の話?」 「けど処置さえミスんなきゃ傷は治るんだから、たまの失敗は大目に見てんのよ、俺は」  乾いた笑いでともちゃんをいなした。  大目に見られるような失敗でよかったじゃないか、とやさぐれた気持ちになる。俺はもうずっと取り返しがつかないことばっかりで、今転んでしまえば、骨の一本や二本折れるような大惨事にでもなってしまう気がした。  ひどい妄想だ。やっぱり、今日はひどく酔っている。 「よし、転ばなかった」  ともちゃんが俺よりひと足先に玄関ドアの前へと到着した。  続けて俺も到着する。ふと玄関近くのレジカウンターの脇に、ミノリとほのかがモデルを務める、新しいデザインの二次会パーティー用のポスターが目についた。前々から第二弾を作りたいと希望だけは聞いていた。  ミノリを初めて撮ったのは春だった。  あれからまだ一年も経っていない。なのにミノリは臆病な俺の心の隙間に春風の如く入り込んで、こんなにも深く根づき、芽吹いてしまった。  ――俺はあなたの彼氏なんだから、あなたも会う時間だけは俺の彼氏でいて。  ――お互い演じてる方が楽でしょ?  突飛なルールだと最初は思った。  だけど間違いなく『レンタル彼氏』に頼ることしかできなかった人たちを、おとぎ話の世界へ見事にいざなう魔法の言葉だった。  ああ。それならもう一度だけ俺も――。  不埒な考えが浮かぶ。いやいや、なしだろ。沼に引きずり込まれる思考を振り切り、ともちゃんが呼びつけたタクシーに二人で乗り込んだ。  しかし繁華街の電飾に照らされた道路をガラス越しに見つめながらも、何度だって『レンタル彼氏』の文字が頭をちらつく。  元カレ主催のパーティーに来てほしいとは、恋人であるあいつには到底言えない。  それでも夜野さんは連れてくることを望んでいる。思いどおりにならないときの夜野さんは、俺の言葉をどこまでも奪いつくすほど静かな怒りをまき散らす。  鼻で笑うと、窓ガラスが白く曇った。  俺の前に残る選択は、もうどちらも俺にとってはあやまちだ。でも選ばなくちゃいけないなら、俺はより確実に成約できる可能性が高い方を選ぶんだろう。  車の揺れで震える指を動かし、久しぶりに『レンタル彼氏』のサイトをスマホで開いた。  自分を雑に扱う選択。大切とは真逆。そうやって理解はできても自制ができないのは、全部アルコールのせいにしておこう。  進んでは戻ってを繰り返す人生のままならなさを思い、俺は静かに『ミヤタ』と名前を入力した。

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