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第五章 さようならへの招待状 6-1
毎日は平然と過ぎ、二月になってもミノリと俺の関係はなにも変わらなかった。
偽名で依頼したことが功を奏したのか、ミノリは俺が『レンタル彼氏』を利用したことに気づいた様子もなく、また俺も素知らぬ顔を装った。
内面は、ひどい春の嵐だった。
やがて迎えた夜野さんのオープニングパーティー当日。
待ち合わせに俺が指定したのは、ミノリを初めてレンタルしたときに利用した駅前の広場だった。
なんの因果か、夜野さんの新たなフォトスタジオはここから少し離れたテナントビル内にある。
指定した時刻の一時間前には到着してしまい、買った缶コーヒーで暖をとりながら、ひとまず空いていたベンチに腰を下ろした。
連日の寝不足のせいか、どうにも霞む視界を手の甲で擦りながら、コンクリートのちょっとしたひび割れを眺める。
依頼を受けてもらえない可能性も当然考えたが、数日間の返事の保留期間を経て、ミノリは了承の旨を『ミヤタ』と名乗る俺に伝えてきた。
だからルール上は成立している。しかしドタキャンされる可能性も、なくはない。
来なければそれでいいと思い、でもその数分後には来てほしいと思い直す、そんな日々をここまで過ごしてきたのに、そのジェットコースターのような気持ちの乱れは今が最高潮に激しい。
ああ、本当に来るんだろうか。
缶コーヒーを両手で握りしめたまま、額にこつんと缶の縁を押し当てる。
そのまま氷漬けにされたように動けなくなって、時間ばかりが刻々と過ぎていく。
いつしか缶コーヒーは熱を失っていた。
寒い。年々一人で過ごす冬の寒さが堪えるようになってきたように思う。
震える足を拳で何度か殴りつけると、おもむろに車のクラクションが駅前の喧騒を切り裂いた。
何事だろうかと顔を上げた瞬間、視界の端で街灯に照らされた茶色の髪を捉える。
「……『ミヤタ』さん、ですか?」
そうか。やっぱりそうだよな。
おまえは来るんだよな、こういうときに。律儀なやつ。ドタキャンなんて、おまえはしない。
不安と後悔で肺が潰れそうだった。自分で名乗った偽名すら理解するのが一拍遅れて、すぐに返事ができない。
「おまえのスーツ姿、初めて見た」
時間をかけ、擦り切れた気持ちのままに言う。
体の線に沿った仕立てのよさそうなスーツとコートに身を包んだミノリが、夜の景観に華やかさを添えて、俺の前に立っている。
「ハルのうそつき」
精悍だったミノリの顔がたちまち崩れていく。怒りたいのか泣きたいのか、とにかく余裕が削ぎ落とされた表情は俺の心臓を抉るには十分だった。
「そっちが指定したんだろ。スーツ着てこいって」
いつもに比べて語気が強い。丁寧にセットした髪から覗くオニキスのピアスだけが日常を保っている。
「……ハルの手、震えてる」
ベンチに腰かけた俺を間近で見下ろしながら、ミノリが俺の手を取った。寒さのあまり感覚すら失いかけた手は、ミノリの体温に痛いほど焦がされていく。
「最初は断ろうかと思ってた。依頼者はハルの名前じゃないし、連絡先だっていつもと違う。でも待ち合わせに指定された場所が初めてハルと出会ったところで、なんかちょっとだけ引っかかって……。こういうのが勘なんだろうな。ハルのこと、ずっと観察してた」
こんなに観察したの、嫌々やってた夏休みの自由研究以来かも。わざとおどけるミノリに、上手く笑い返してやれない自分が憎い。
「だから、返事を保留にしたのか?」
再び笑顔が消えたタイミングで訊ねると、ミノリは弱々しくうなずく。
「最近、俺と会ってもちょっとよそよそしかった」
「そんなことないだろ」
「あるよ。本当に少しずつ、ズレてる感じ。俺と目を合わすタイミングがちょっとだけ遅かったり、抱きしめても体をそれとなく離そうとしたり。そういうものの積み重ねでわかっちゃうんだよ」
ねえ、ハル。俺を見て。
ミノリの両手に頬をつかまれ、ぐっと顔を持ち上げられる。苦痛そうに歪んだミノリと視線が交わり、目の奥が燃えるように熱くなった。
「俺はハルの彼氏として、そんなに頼りない?」
「そんなこと、ない」
「じゃあ、なんでわざわざレンタルなんかしたの」
言葉が詰まる。それでも聞き出すまで離さないと、ミノリの目が訴えてくる。
「……なにがあっても完璧な彼氏でいてほしかったから」
「え?」
「レンタルされてる間はおまえはちゃんと『彼氏』でいてくれる。俺はおまえの仕事へのプライドを信じてるんだ」
「なんだよ、それ。なに、プライド?」
ミノリの指が頬にわずかに食い込んだ。足の上にあった缶コーヒーがゆっくりと転がり落ち、地面とぶつかって鈍い音を放つ。
「結局それって俺自身は信用してないってこと? お金払って、ビジネスライクを貫いて……ハルが本当に必要なのは俺じゃないの? 俺だけがハルと付き合ってるって勘違いして、ずっと浮かれてたってこと?」
震えるミノリの声に、胸が掻きむしられていく。
いっそのこと顔をそむけてしまいたかった。でも懸命に耐える。そうすることが今の俺にできる唯一の誠意だった。
「俺だって浮かれてたよ。ミノリがいることで、生まれ変わった気持ちになるぐらい」
「だったら、なんで」
「おまえだってわかるだろ。生き方を変えるのはそう簡単じゃないってことぐらい。招待状のことだって、おまえに見せたらこの関係がすぐに壊れる可能性だってあったのに……言い出せるはずがないだろ」
「ねえ、待って。招待状ってなに。どういう、こと?」
前髪の隙間から覗く、ミノリの淡い瞳が小刻みに揺れている。
「ドレスコードにスーツを指定した理由だ。誘われたんだよ、元カレが開くパーティーに」
ミノリの手に自分の手をそっと添えた。
「パーティーへ行くにはおまえが必要だった。それにおまえは誠実だから、一度結んだレンタルの契約を自分から破棄することはないだろ?」
やがてミノリは感情にふたをするように、重いため息をついた。それから肩で息を吸い、訊ねてくる。
「ハルは、元カレに会いに行きたいの?」
首を横に小さく振った。
「行きたいんじゃない。絶対に会わなくちゃいけない。そのあとはどうなってもいい、俺をもう二度と信じられないなら別れてくれていいんだ」
そう言って、平然と嘘をつく自分が信じられなかった。
本当は誰よりも、ミノリを求めている。でも今夜を乗り越えなければ、俺は今度こそ自分を許せなくなる。
見つめあいながら、長い沈黙が横たわった。心臓の音だけが、俺たちの時間を押し流す。後戻りを許さない、残酷な音だ。
「今日だけは俺の『彼氏』でいてほしい」
脱力するように俺の頬からミノリが手を離す。
たちまち冬の風が肌をなぞり、ミノリから与えられた熱を奪っていく。
「……ねえ。ハルは俺に言ったよね」
ミノリが天を仰いだ。信仰深く祈りを捧げるときのような清らかさをその立ち姿に見出して、見てはいけないものを見たときと同じ背徳心に苛まれた。
「神様にもお気に入りがいるんだなって。いったいいくつ与えてもらったんだ、って」
「ナイトプールのときか」
「その言葉、今でもときどき思い出すよ。ハルの前で完璧な彼氏として振る舞えたらよかったんだけど、俺はやっぱり人間だから……だから、これだけは覚えておいて。俺だって、傷つくんだ」
泣き笑いながらそう告げると、ミノリが俺の手を強引に引っ張りベンチから立ち上がらせる。それから落ちた缶コーヒーを拾い上げ、俺に差し出した。
「行こう」
「……え」
「パーティー、行くんだよね? 仕事だから、ちゃんと最後までハルの隣にいるよ」
まるでさっきまでとは別人のように、ミノリが朗らかに笑う。
作り置かれた笑み。
「『レンタル彼氏』として、そばにいるよ」
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