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第五章 さようならへの招待状 6-3

「ねえ、ハル。ちょっと移動しよっか。壁沿いのほうまで歩ける?」  フロアの真ん中で長らく粘っていたが、人の熱気を浴びすぎて軽く疲労感を覚えた頃合いだった。  ミノリからの提案に「わかった」と返す。  部屋の片隅に身を置いただけで、わずかに空気の圧が和らぐ。ほっと一息ついたのも束の間、今度はミノリが危惧していた関係者に捕まってしまった。 「あれ、驚いた。卯木さんじゃないですか。まさかこんなところで再会できるだなんて」  夜野さんと同世代、もしくは少し上ぐらいだろうか。  大股でミノリに近づいてきた男は、お久しぶりです、と太い声を張り上げた。  業界の狭さに辟易すると同時に、ミノリの持つ特有の「華」には感じ入るばかりだ。ここに来たときから好奇な視線を浴び続けて、それでも笑みを絶やさないミノリの在り方にはある種の尊敬を抱いてしまう。 「ああ、MK出版の織元さんですよね。先日のフード撮影では大変お世話になりました」  俺の前に進んで歩み出ると、ミノリは近づいてきた男に会釈をする。 「いえいえ、こちらこそ! 今回特に食べ歩きに起用したモデルさんの自然体な表情とか、日常的な街の切り取り方とか、年もお若いのにいいセンスをお持ちで。社内でも大好評なんですよ」 「満足いただける写真を納品できてよかったです」  ミノリが儀式的な笑みを浮かべる。すると男はひそひそ話をするように、ミノリとの間合いを詰めた。 「というのもね。ここだけの話、企画を立ち上げる段階で卯木さんの撮る写真がいいって推してきた者がいたんですよね」 「佐原さんのことですか? それなら撮影中に直接伝えてくださいましたよ。私がレギュラーで撮ってるECサイトの服が好きで、そこのコンセプトフォトで私のことを知った、と」 「おおっと、佐原やるなあ。抜け目ない」  なかなか込み入った話になってきた。  このまま部外者の俺が聞いてもいいのか判断しかねていると、男が声のトーンを上げながら俺たちがいる場所から遠く離れた方向を指で示す。 「卯木さん、よかったらあっちに佐原がいるので会ってやってください。うちのデザイナーも同席してるんで、ぜひ」 「ああ、でも……」  ミノリがちらりとこちらを見る。俺を心配をしているのか、もしくは『レンタル彼氏』として依頼者から離れるのはこいつなりに葛藤が生じるのか。  どちらにしてもここで無碍にすれば、相手の心象が悪い。  大丈夫。無言でうなずくと、ミノリは申し訳なさそうにひとときだけ眉を下げた。  ミノリと男がいなくなり、壁際にぽつんと取り残される。  手持ち無沙汰になり、まだ真新しい建造物特有の塗料の匂いが残るフロアを眺めた。  招待客たちは誰かとの出合い頭に、あちらこちらで事務的なあいさつを繰り返している。ときにはチューニングの行き届かず変に跳ねた声で、嘘か本当かもわからない言葉を交わしあっている。  眺めるだけで実りのない状況が長く続いて、ちょっとした出来心から両手で四角いフレームを作ってみた。  もし俺がこの瞬間を写真に収めるなら、どんな構図にするだろうか。  どこにピントを合わせるだろう。色味は。タイトルは。  着飾った人たちが、奥深くに隠した「本音」を切り取れたら、きっとおもしろい写真になるかもしれない。 「どう? なにかいいものは撮れそうかな?」  手の中のフレームに、唐突に現れたのは夜野さんだ。まじまじと覗き込み、俺と目線を合わせてくる。ハッとして、すぐに手を引っ込めると途端に夜野さんは鼻白んだ。 「そんなに慌てなくてもいいのに。春輝の現状を正確に把握しておきたいだけなんだ」  無理にあの状況から抜けてきたんだろうか。言葉を並べる夜野さんの肩越しに、さまざまな思惑の混じった視線をいくつも投げかけられているのがわかった。 「彼氏はどうしたんだ? 今日一緒に来なかったのかな?」  言葉がなかなか出てこない。  俺の横を夜野さんがじれったそうに通り過ぎ、焦燥に駆られて振り返る。しかし実際は夜野さんは俺から離れたわけじゃなく、壁際に整然と並んでいた椅子の一つに腰を下ろしていた。  あの、と一歩だけ前に出る。 「今は別行動で……フロアのどこかにはいると思うんですけど……」 「そう。ちゃんと挨拶はしたかったんだけど、仕方ないね」  春輝、座りなさい。夜野さんが自分の隣の空席を、ぽんぽんと二度叩く。  すぐには動けなかった。  誰かの指示を素直に聞き入れるには、信頼関係が成立しているからこそだ。  どちらかが強くてもいけない。バランスが崩れれば、それは尊厳を踏み潰した服従だ。  もう夜野さんに、俺は従いたくない。この瞬間、はっきりと自分の気持ちが拒絶へと傾くのがわかった。  しかし動き出さない俺を見て、「春輝」と夜野さんがまた呼ぶ。さっきよりもより硬く冷たい声で。  自分の意思で彼の隣に座るべきだろう。  そして、話す。伝える。  執拗に念じながら歩み寄り、隣に腰かければ夜野さんは満足そうな様子で話し始めた。 「春輝。僕ともっと話をしないか」 「あの待ってください、夜野さん。俺はもうこれ以上は……」  夜野さんがすっと人差し指を立てる。喋るな、ということか。 「付き合っているときは撮影のことを論じるばかりで、春輝個人のことを深く知ろうとしてなかったなと思ってね。ずっと心残りではあったんだ」  また二人で飲みに行ってもいい。夜野さんの手が俺の肩にそっと触れる。 「春輝がどんなものを見て、どんなふうに撮るのか。なにを思ってるのか知りたい」  視線をそろそろと向ける。もう戻らない昔を懐かしむように薄く笑みを浮かべた彼がいて、うまく噛み合わない気持ち悪さにぐっと奥歯を噛みしめた。 「あとはそうだな……もう一度僕の右腕として働くためになにから始めようか。春輝の意見も聞いてあげたいけれど、でもやっぱりちょっとだけ気に入らないんだ。今の君の写真。いらないところは削ってしまいたい」  猿ぐつわを噛まされているわけでもない。いくらでも反論できる。これだけ大勢の人がいるんだ、夜野さんだって無理に力を行使することもないだろう。  なのに、言えない。情けない。過去の自分をなぞっていく。 「ハルから削るものなんて、なにもないと思いますよ」  ふと俺の足元に影が落ちた。  心臓が激しく鳴り出して、夜野さんのスタジオを飛び出した日の情景がよみがえる。  あの日の空は異様に明るかった。仕事を放棄して昼日中を歩く自分を責めているようで、それでも歩くことに専念した。今日みたいにうるさい心臓を抱えながら、足を叱咤して歩き続けた。 「ああ、君が春輝の彼氏かな?」 「はい、卯木と言います」  声に釣り上げられるように顔を上向かせる。照明を頭から浴び、顔に深い印影を乗せたミノリが俺たちの前に立っていた。  しかしその顔は『レンタル彼氏』としての枠を大きく踏み越えて、少しも笑っていない。感情を徹底的に潰したようなミノリの今の表情は、かつて個展帰りに笹川さんと街中で出会ったあのときとまるでおなじだ。 「削るものはないって、どうして卯木くんはそう思うの。君は写真のことなんてなにも知らないだろう?」  夜野さんは俺の肩から手を離すと、ミノリに向き直った。 「知ってますよ。俺もあなたといっしょで、この業界の人間ですから」 「だったら尚更僕に共感しないとおかしいな。感性も技術も、育てるには研鑽が必要だ。僕のスタジオを預けたくても、今の春輝にはいらないものが多すぎる」 「だからといって、それはあなたが決めることじゃない」  ミノリが語気を強めた。フロアがざわついて、俺たちの周りに人が集まってくる。  その様子に気づいた夜野さんがわずかに顔をしかめながら鋭く息を吐き、席を立った。 「場所を変えよう。ここじゃあ僕たちは目立ちすぎる」

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