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第五章 さようならへの招待状 6-4

 夜野さんに案内されたのは、テナントビルの二階だった。一階は撮影スタジオ、二階は普段作業を行うための事務所になっているという。 「一階の作業を急いで進めたから、まだここはちょっと散らかっているけどね。まあ気にせず入ってくつろいで」  夜野さんが照明をつけると、まだビニールの梱包に包まれたデスク用品や、多くの段ボール、そしてゴミを敷き詰めたように散乱している床が視界に飛び込んできた。  くつろいで、と言われても。応接スペースのない室内でどこにいるのが正解なのか判断できない。  部屋の中央に整然と置かれた新品のオフィスデスク付近で立ち尽くす俺をよそに、ミノリは壁面に飾られたフォトパネルを黙々と眺めている。 「これ、夜野さんの撮ったやつですよね」  俺が壁を指差せば、ひとつのオフィスチェアに座った夜野さんがデスクに肘をつきながら相槌を打った。 「そう。春輝が居たころから飾っていたやつもここに何枚か」 「一番新しいのは?」  訊ねたのはミノリだった。 「その赤いドレスのやつかな」  誘われるように、俺もその写真を眺める。  夜野さんらしい写真だった。  背中が大きく開いた赤のロングドレスを身にまとうモデル。その妖艶さを引き立てるように、レンズはモデルの背後から向けられている。  筋肉で引き締まった体と浮き出た肩甲骨の印影は、計算されたライティングにより見事に息を飲むほど、静謐な美しさを秘めていた。  無駄を嫌い、被写体から究極の美を引き出すことに命を懸ける。  かつての彼は今も変わらずここにいる。 「そこのブランドのキービジュアルを一年前から任されていてね。路面店の大きなショーウィンドウに今も飾られている写真だよ」  夜野さんの請け負う仕事の規模は、俺と付き合っていたときよりさらに広くなった。そうでもなければ複数のスタジオや多くのスタッフを抱える経営者にはなり得ないだろうが、それにしても俺にとっては瞬くような速さでたどり着いたように思う。  これほどの実力者になれば、より多くの人材や才能と出会うなんて造作もないことだろう。 「右腕はもう、俺じゃなくてもいいでしょう?」  なんとか喉から絞り出すようにして訊ねることができた。場所と空気が変わったから。ここにミノリがいるから。いろんな要素が俺の背中を後押しする。 「たくさんのスタッフに恵まれて、多くの招待客がこの日のために集まってくる。そんなあなたにとって、自らスタジオを去った俺は、もう忘れられるべき存在でもいいはずです」  パーティーのざわめきから隔離された今、自分の怯えた声が鼓膜に痛いほど刺さって、それでも言葉を止められなかった。 「卯木くん」  黙って聞いていた夜野さんが、目線を俺から外す。その先にはミノリがいる。 「卯木くんなら僕が春輝をほしがる理由、わかるかな?」 「……ハルの目、ですよね」  見事に言い当てられたのか、夜野さんが驚いたと言わんばかりに笑った。 「ハルは観察力に優れてる。そのすごさをハルはよくわかってないみたいだけど、普通は誰かの撮り方をそっくりに真似るなんて簡単にできることじゃない。写真はトレースができないから……でも、それを持ち前の目のよさでハルはやってのけた」  気づけばミノリが俺の半歩先に立っていた。  表情は見えない。ただ、ミノリの拳が震えている。 「まさか年若い君に言い当てられるなんてね。卯木くんも、ちゃんとその道のプロだ」  夜野さんがすっと笑うのをやめ、話を続ける。 「だから欲しいんだよ。春輝のような才能には出会えそうで出会えなかった。君に恋人のポジションは譲る。でも春輝の才能は僕に預けてほしい」 「あなたは……」  ミノリがわずかに前へと踏み出した。 「ハルの写真を見たことがありますか?」 「当然だよ。僕には春輝の成長を促す責任があった。撮ったものを見なければ批評もできないだろ」 「それじゃあ、あなたと付き合う前のものは? 初めて撮った写真は? 俺はたくさん見せてもらった。もちろん今の写真も、見せてもらえるものは全部。取りこぼしたくなかったから」  そうだった。ミノリがせがむから。ミノリの写真と引き換えに、俺もまた多くの写真を見せてきた。多分誰よりもたくさん、俺の写真をミノリは見てくれた。 「たしかにあなたといたころのハルの撮るものは美しかった。ここに貼られてるパネルたちによく似てる。でもその美しさは、あるときからハルの写真の中からぷっつりといなくなるんだ。ピントも甘くて、露出も合ってない。印象に残らないぼんやりとした写真ばっかりで……」  でも。ミノリが言葉を区切り、肩を大きく震わせた。 「それでもハルはまだ撮ってる。しがみついてる。そんなハルをこれ以上削るっていうなら、俺はあなたを許せない」  状況も心境もあのときとはなにもかもが違うのに、かつて聞いたミノリの言葉が体の奥で響いている。 ――俺、ハルの写真好きだよ。  やさしい波紋が広がっていく。ずっと俺の心臓の位置にありながらも腫れ物扱いをするしかなかった感情に、ようやく今、触れる。  好きだ。自分の写真が、好きだ。どうしても。  たとえ誰かにとってはダメなものだとしても。  ミノリが好きだと言ってくれる。  それだけで俺は。 「夜野さん」  停滞した空気を切り、ミノリの前へ歩み出る。夜野さんが刺すように俺を見た。 「俺はあなたのところには戻りません」 「……本気、なのか」 「はい」 「君が育っていくための条件が、僕といるだけで手に入るのに?」 「……それでもです。あなたが撮りたいものと俺の撮りたいものは、もう二度と交わらない。あなたの人生のための作品にもならない。自分の思うやり方で、俺は写真を撮り続けていきたい」  いつだって余裕を見せてきた夜野さんの顔がにわかに崩れた。その表情は今までにたった一度だけ、俺がスタジオを辞めると告げた日に垣間見せたものとそっくりだった。 「それが、答えなんだね」  息を吐きながら、夜野さんはそう言った。もっとたくさんの反論が来るかと思ったが、それ以上の言葉は続かなかった。  俺から体を背け、夜野さんが静かに天井のとある一点を見つめている。  もしかしたら、この距離で彼を見るのはこれで最後になるのかもしれない。そう思うと頭を下げずにはいられなかった。 「撮ることを教えてくれて、本当にありがとうございました」  三秒ほどゆっくりと数え、頭を上げる。それからミノリの背を押すようにして歩き出す。  事務所のドアが閉じる寸前、顔を手のひらで覆う夜野さんの姿が見えた。

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