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第五章 さようならへの招待状 7-1
スタジオを後にし、駅前で捕まえたタクシーに二人で乗った。
慣れない場所に赴き、多分お互い疲れていたんだと思う。
タクシーでいいよねとミノリに聞かれ、電車やバスという選択肢がよぎることなく即決した。ここまでの道のりでは弾まない会話を一つ、二つとしただけだった。
どちらまで。タクシーの運転手に聞かれ、ミノリが自分の住所を素早く告げる。ここからなら俺の家の方が近いはずなのにと呆気にとられる俺を前にして、ミノリは「あと一分だよ」と自身の腕時計を真剣に見つめた。
「もうすぐ『レンタル』が終わるから、カウントダウンしよう」
カウントダウンを耳にする機会なんて、新年を迎えるときぐらいなものだ。
どうして年が変わるだけで世界中の人間がこぞってはしゃぎたてるんだろう、とここ数年はひどく冷めた思いで年越しのテレビ中継を見ていた。
本当にただ日付けを跨ぐだけで、シャワーのように夜野さんから貼られたレッテルを流す効果もないし、抱えたしんどさも消えない。明日も明後日も俺は変わらずソファーベッドの住人で、ただテレビやネットの世界は迎春の言葉を付け足し、俺に新年をはいどうぞと押しつける。
「残り十秒」
耳障りのいいカウントダウンが始まる。それよりも速く刻まれていく鼓動が不安を煽る。
契約が終わると、俺たちはどうなるんだろう。答えのない問いがこんなにも怖い。
「三、二、一……」
――ゼロ。
学生時代、写真整理の片手間に漠然と見たニューヨーク・タイムズスクエアでの新年の紙吹雪が、モノクロのまま脳裏を掠めた瞬間だった。
ミノリの手が後部座席に投げ出されていた俺の手をつかんだ。訪れた感触の強さに、体の真ん中で心臓がどきっと浮き上がる。
「離さない。ハルが嫌だって言っても、絶対に」
目の前にいるのは『レンタル彼氏』をそつなくこなすミノリでも、フォトグラファーとしてひたむきになってきたUTSUGI.Mでもない。
ただの卯木実として、俺を求めている。
パーティー会場にいる間のミノリはむしろ清廉なほど俺に触れてこなかったのに、改めて触れられると必死になって押さえつけてきたものがすぐにもあふれてしまいそうだった。
俺が欲しがるのはきっと間違っている。でも欲しがられるのなら、欲しがる自分を赦したくなる。
自らミノリを傷つけておきながらも浅ましく抱えていた欲求は、俺の声を掠れさせた。
「……俺で、いいのかよ」
体が疼いた。体温がタクシーに搭載されたオドメーターとともに上昇して、少しでもはやく家に着けばいいと思った。
「もうダメかと思ったのに……」
熱くなる顔を背け、外と中の気温差で曇る窓ガラスを睨みつけていると、ミノリの指がしっかりと絡んでくる。綿密に編まれた織物みたいに。ほどけない。ほどきたくない。
「いいよ」
ハルだから、いいんだ。
*
「シャワー、先に使ってくれていいから」
玄関に入るなり、ミノリは俺の手を引いて風呂場へと導いた。
大人一人分の窮屈な脱衣所に押し込まれる。
すぐに出ていくかと思ったが、ミノリはその場で佇んだ。特別なにかをするわけでもなく、ただ俺を見守るだけの行為だった。
「俺が脱がせた方がいい?」
なんとかネクタイを外したところで、ミノリに苦笑された。
「……うるさい。でもあんまりこっち見んな」
乾杯のときに飲んだシャンパンはとっくに体から抜け落ち、素面の神経では視線に耐えられない。
ミノリからくるりと背を向け、勢いのまま裸になる。浴室のドアにそろそろと手を伸ばすと、背後から伸びてきた腕に抱き止められた。
「……どうした?」
返事はない。普段から特別饒舌じゃないにしても、スタジオを出てからのミノリはよく黙る。
ミノリの腕にそっと触れてみた。しかしすぐに後ろにあるミノリの体がぴくりと跳ねて、いけないことをしてしまったと俺も慌てて手を引っ込める。
しかしそれを悔いるように、ミノリの重心が俺の方へと傾いて、抱きしめる力が一段と強くなった。
何か言わなければ、と思う。でも今夜はあまりに伝えたいことが多すぎる。言葉がうまくまとまらず、もうずっとパニック状態のように心臓が早鐘だ。
「……ごめん。引き止めて」
結局俺からはなにも伝えられないまま、ミノリは「ハルの分の着替え持ってくる」と脱衣所から姿を消した。
さっきまであった腕が消え去ると、底冷えを拾う脱衣所の寒さで体が震えた。
シャワーの温度はいつもより少し熱くして、できるだけ無心を心掛けながら体は念入りに綺麗にした。
「先に借りて悪かったな」
「ううん。それじゃあ、俺も入ってくる」
俺が部屋に戻ると、入れ替わる形でミノリは颯爽と浴室に消えていった。
自分の部屋ならまだしも、ここは他人の部屋で、急に一人にされるとどうすればいいのか迷うことがある。大抵は不自然に突っ立っている俺を見てミノリがいろいろと世話を焼いてくれるが、今日はそんな余裕もないらしい。
疲労を抱えた体は、自然と俺をベッドに向かわせた。
スマホを触ったり、床に投げ出されていた専門誌をめくったりしてみたものの、内容が少しも頭に入ってこない。
なにかをして気を紛らわせるのはやめにした。
重い体をうつ伏せにし、シーツに顔を埋める。ミノリの濃い匂いに包まれ、胸が高鳴っていくのと同時に、肺から体の全体へと安らぎが広がっていくのがわかる。
滞りのない循環はめぐりにめぐって、ここ数週間の行動を振り返る余裕すら生まれていく。
ミノリと出会ってから自分を見つめ直す機会が増えた。
驚くほど愛情に飢えているのに、自分のことすらきちんと愛してやれず、ずっと飢え続けていた。
そのうえミノリからの想いを正面からがっつり受け止めてやれるほどの度量もなく、いつまで経っても弱腰で、頭ごなしにそんな自分はダメだと思い込んだ。
でもミノリは俺を否定しない。ダメな子とは決して言わない。
そういえば出会ったときからあいつは俺に教えてくれていたように思う。
俺は、俺のままでいい――そう思えるようになるまで、とんでもなく遠回りをし続けた人生だ。
「起きてる?」
ミノリの声が降ってくる。
ベッドが少し沈んで、声の聞こえた方へ顔を向ければ、シャワーを終えたミノリがベッドの縁に腰かけていた。
「うん、起きてる」
「よかった、間に合って。今日は疲れただろうし、もう寝ててもおかしくないなって思ってたから。急いでシャワー浴びた甲斐がある」
「ちゃんと洗えよ」
「洗ったよ。いつもよりちょっと雑かもしれないけど」
お互いに吹き出すように笑った。
「なにか飲む? それとも食べる?」
ミノリが横目で俺を見た。体を起こし、ミノリとわずかな距離を空けて隣に座る。
今の俺たちにとってちょうどいい間合いを計りかねて、妙なぎこちなさが漂う。
「……ちょっといいアイス」
しばらく考えてからぽつりと言うと、ミノリが呆気に取られたような顔をした。
「ずっと引っかかってた。スタジオ見学させてもらった帰り、ミノリがせっかく買ってきてくれたのに、あのときは追い返したから」
俺が予期していたようにミノリは口角をわずかに押し上げる。
「体、冷えちゃうよ」
笑えている。そんな他愛のないことが、かけがえのないものに思えた。
世の中に絶対なんてない。当たり前に享受しているものは、明日には消えてなくなるほどの脆さをいつも孕んでいる。
「ハルって細いのに、意外と力あるよね」
気づけばミノリを抱きしめていた。
腕に収めたミノリの体からゆっくりと強張りが溶けていく。無抵抗のまま、俺に身を預けてくれることがたまらなくうれしい。
「もっと気持ち、ぶつけてよ」
ミノリが話すと、触れた箇所から声の振動がダイレクトに伝わった。
「これでもぶつけてるつもりなんだよ」
「足りない。全然。もっと本気でぶつけてほしい」
「俺が本気になったら、おまえはきっと嫌になる」
「ならない。俺はもうとっくに本気だから、嫌になるならハルのほうが俺より先だ。でもハルは俺のことを嫌になってない」
だったら俺も嫌にならない、とミノリは拗ねた調子で言う。
とんでもない自論だ。理屈もなにもあったものじゃない。今どきの小学生のほうがもっと筋の通った、歯痒くなるような言い訳を並べることだろう。
「パーティーのときはあんなにかっこよかったのに」
「え?」
「急に子どもっぽくなったな、って」
ふっと鼻を鳴らすとミノリは俺から体を離し、真剣な顔で見つめてきた。
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