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第五章 さようならへの招待状 8

 目を開けると、カーテンの隙間から淡い光がこぼれていた。肌に触れる空気は冷たいものの、冬の底にいるときほど朝はもう暗くない。  夢すら見ない眠りを迎えたのは、あまりに久しぶりのことだった。  セックスの余韻を残す体は重だるく、しかしそれよりももっと重いのは、俺を後ろから抱きしめるようにして被さったミノリの腕だった。  体を反転すれば、ミノリの無防備な寝顔がすぐそこにある。珍しくオニキスのピアスが耳たぶに居座っていて、昨夜の余裕のなさがうかがえた。 「相変わらず、まつ毛、長すぎ」  ミノリに散々暴かれた下腹部が疼く。ミノリの形を腹の奥で未だに覚えているせいか、もっと近づきたくてたまらない。  このままずっと見ていたいような、早く言葉を交わしたいような相反する気持ちの間で揺れ動きながら、触れるだけのキスをまぶたに落とす。  するとミノリが、魔法にかけられたようににわかに動きだした。 「……ねえ。なに食べたい」  抱き寄せられる。ミノリのお気に召すままにすっぽりと腕の中に収まりながら、うーん、と悩んだ。 「パン、かな」 「そっかあ、パンかあ」  まだ眠いのかもしれない。しみじみと呟くだけ呟いて、沈黙が訪れる。しばらくしてミノリが、あ、と浮ついた声をあげた。 「パン屋さん、いこ」 「近くにあるのか?」 「歩いて十五分ぐらいのとこ。レンタル彼氏始める前は、たまに一人で買いに行ってた。なんか毎日ちょっとずつ余裕なくてお店のこと忘れてたけど……まだ営業してるかな」 「じゃあ、俺と確かめにいくか」 「ふふ、いいね。あとはベーコンエッグ作ってあげる。でも焦げたらごめん」  このまま起きるのかと思えば、ミノリは俺の胸元に顔を埋めてしまう。  甘噛みされる。ミノリの吐息の温度に昨夜の行為が重なって、一瞬にして意識が熱に絡め取られていく。 「……見えないところがいい」 「やさしいね、ハルは。俺、つけあがっちゃうよ?」 「つけあがってもいい。健全な証拠だろ」 「でもなあ」  リップ音が部屋を凛と震わせる。心臓のちょうど上に、小さな赤い色が付け足された。 「このまま続けると、人気のパンが売り切れちゃうかも」  かわいさのあまりに吹き出した。笑うなと言わんばかりに、ミノリがもっと強く抱きしめてくる。  いつまでも飽きることのないキスをして、ようやく支度を終えたのは目が覚めてから随分と後のことだった。 「ちゃんと買えてよかったな。その、なんだっけ」 「ストロベリーカスタードデニッシュ?」 「そう、それ。残り一個だっただろ」 「うん。今日はツいてるかも」  ミノリの手に握られた、パン屋の袋がカサカサと音を立てる。  夜のうちにどうやら雨が降ったらしい。雨上がりの空気を肺に取り込みながら、水溜まりを時折避けて歩いた。 「でも、結構買っちゃったね」  ミノリが苦笑する。朝食の分だけを買うはずだったが、袋の中には絶対に一食では終わらない量が詰め込まれている。 「今日は調子乗りすぎた。なんか目の前に焼きたてのパンがあると匂いとかで食欲そそられるというか、あれもこれも欲しくなって」 「あー、なんかわかる。でも今日はハルがいるし、半分こもできるから、たくさん買ってもいいやって思ったら止まんなかった。こんなに買ったの、久しぶりだ」  ミノリが袋の中を心配そうに覗いた。 「一人だと買いすぎても消費が間に合わないから。よくそれで失敗してたなあ」 「そんなときもある。俺だって失敗だらけだ」  ぐっと拳を作り、肺の中を息を吐き出した。 「ごめんな、ミノリ」  ちゃんとおまえを信じてやれなくて、ごめん。  もういいよと言わんばかりに、ミノリが俺の頭をぐしゃりと撫でた。  それどころかわざわざ立ち止まっては、両手を使って、犬を可愛がるかのようにかきまぜてくる。 「おまえなあ……」 「似合ってるよ。パーマ当てたみたい」 「そういう問題じゃないだろ」  乱れた髪をいそいそと直しにかかると、ミノリもそれに倣って暴れているだろう俺の髪を直してくれた。 「でも、俺もハルに謝るべきなんだよね」  そっと髪から手を離す途中、指に絡んだ最後の一房を名残惜しそうにミノリは摘んだ。 「『レンタル彼氏』はもうおしまいにするから。辞める」 「……え」 「俺はやっぱり、ハルだけの彼氏になりたい」  俺たちの横をトップスピードにも満たないロードバイクが通り抜け、驚いたようにミノリの手が遠ざかる。残された風だけが俺の肌をなぞっていく。 「本当に、それでいいのか?」 「むしろ決めるのが遅くなってごめん。昨日のハルを見て、俺も誠実にならないとなあって背中押してもらった気分」 「ミノリはいつも誠実だろ」 「本当に誠実なやつは、本命作っておいてずるずると『レンタル彼氏』なんて続けない。ハルがいつかいなくなったとき用の保険を掛けてたんだ。俺の都合のいいようにハルが泳がせておいてくれるから、つい」 「……ずるいやつ」 「……うん」 「でも俺も、ずるいよ」  ミノリを見守り続けたのは、俺が自分らしく生きることをずっと放棄していたせいだった。  悠々と泳ぐミノリを眺めているだけ。  そのほうが濁った気持ちをぶつけるより習慣的にも楽だったからに過ぎない。  そして楽な道へと逃げ続けた結果、大切な人間を見事に傷つけている。 「これでもう『レンタル彼氏』と『本物』で迷わなくて済むな」 「……シンプルになっていいね」 「うん、そう思う」  金にも契約書にも縛られない関係は、やっぱり希薄で不透明だ。拘束力だってないし、いつ終わるかもわからない不安と儚さがある。  それでも俺はまだミノリへの恋を抱えたまま、心臓は今日もどくどくと脈打っている。 「ねえ、ちょっとだけキスしていい?」  そう訊ねながらも、すでにミノリは俺の唇を掠め取っていた。もう一度とせがむように近づいてくるミノリの顔を両手で挟んで停止させる。 「……なんで」   朝と昼、そのちょうど真ん中に位置する太陽が拗ねたミノリを照らしてる。  まるでミノリ自身が光を放っているようだ。  俺というフィルター越しに見たところで、少しも弱まる気配がない。春の日差しのように、強くて、柔らかくて、やさしい光。 「わかるだろ」  呆れて言うとミノリが「やっぱりわかんないよ」と笑って、軽く頬にキスをした。 「なんかいい匂いしない?」  住宅街に足を踏み入れ、もう少しでマンションの見える曲がり角に来たとき、ミノリがすんと鼻を鳴らした。 「パンの匂いじゃないのか?」 「違う。もっと甘くて……あ、これか」  ミノリが指差したのは、一軒家の外壁を乗り越えるほど立派な枝ぶりを見せる梅の木だった。  ふわりと膨らんだ薄紅色の花は細長い枝に沿って咲き乱れ、甘やかな香りを放っている。 「もうそんな季節か」 「早いね」 「呑気だな。おまえの個展の日もきっとこんな感で、いつの間にかやってくる。準備もこれからもっと忙しくなるだろ?」 「それはそうだけど。でも嫌だなあ」  ミノリがため息をつきながら歩き出し、俺も少し後ろからついていく。 「なにが?」 「ハルと会う時間がこれ以上減るのは嫌だ」 「自分でやるって決めたのに」 「わかってる。一過性ってことも。でも嫌なものは嫌」  恋というのはつくづくやっかいだった。  無性にわがままのひとつでも相手に言いたくなるときがある。相手を困らせるつもりはなくても。  ミノリは根の素直な男で、どうしたって体の中に留めて置けないところは俺とは見事に真逆だ。 「……外だろ」  ミノリが俺の手を握ってくる。速度を落とし、俺の隣をミノリは歩く。 「人が来たら離すよ」  嘘が本当かもわからない言葉に、心地よく揺られる。  写真と俺たちの関係を少しでも長く続けていくために、なにかできることはあるだろうか。そんなことをつらつらと考えていたら、自然と繋いだ手に力がこもった。  目の前のわずかな水溜まりをひょいと飛び越えると、マンションのエントランスがもうすぐそこに見えていた。

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