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第六章 Spring fill in the blank 1-1

「あの、もっと近くまで寄った写真はありませんでしたか?」  熱心に見つめていたタブレットから対面に座る俺へと、彼女の視線が移る。  逼迫した思いの滲む彼女の左手の薬指には、先日パートナーと交換し合った結婚指輪が光っていた。春に結婚するからと桜の花びらが彫られた品だ。 「申し訳ありません。先週ご指摘を受けてからデータをもう一度確認したんですが……今お見せしているものが限界です。これ以上のアップの写真はありません」 「そう、ですか」  彼女が深く項垂れる。  先週も見た光景だった。はからずもこの同じ席で。  三月。土曜のランチタイム中の『トレモロ』の窓際の席で、俺は依頼者である彼女を先週に引き続き、落胆させてしまった。 「力及ばず、本当に申し訳ございません」  深く頭を下げると「そんな」と彼女の慌てた声が俺の後頭部に降ってくる。 「宮永さんは悪くありません。こちらが無茶を言ってるのはわかってるんです」 「でも、あなたの大事な人との一瞬を私は撮り逃しました」  そろそろと頭を持ち上げ、タブレットに映し出された写真を改めて見た。  そこにあるのは、目の前の彼女、そして招待客であった彼女の友人が感極まって抱擁する「偶然」を切り取ったものだった。  客たちが一斉にスマホを彼女と友人に向ける中、俺はさらにその観衆の輪の外から撮った。当然被写体である二人までの距離は遠く、表情は読み取れないほどあいまい。プロとしてどうかと思うような出来栄えに、俺は今まさに苦渋を味わっている。  人だかりを掻き分け、踏み込むことさえできていれば、依頼者である彼女を満足させられただろうことは明らかだった。 「本当に私情、なんです」  ティーカップについたリップをぬぐうようにして、彼女は小さな指でその縁をなぞった。 「この子、来週にはアメリカに行っちゃうんです。彼女のパートナーがアメリカ人で……今後はほとんど日本には帰ってこなくなる。でも写真一枚に縋ろうとするなんて、ほんと未練がましいというかダメですよね。ちゃんとここには残ってるのに」  そう言うと彼女は自分の胸に手を当て、俺にほほ笑みかける。うつむきがちの彼女のまつ毛がどこか濡れているようにも見えて、針を刺したように心臓が痛んだ。 「あの、宮永さん」 「は、はい」 「代金はちゃんとお支払いしますから」  まさかの言葉に声が詰まる。  どうか心配しないで、と続きそうな雰囲気を彼女の繊細な表情から感じ取ってしまい、俺はひどく恥じた。  どうにも思い詰めているように見えたのだとしたら、客の前で気取らせるような態度をとってしまった俺の失態だ。 「今日は私のわがままに付き合わせてしまって、本当にすみませんでした」  会話を繋げられない俺をよそに、彼女は紅茶を飲み終えると席を立った。コツンと彼女の履いたパンプスが音を立てる。 「あの、そこまで見送ります」  慌てて立ち上がり、彼女と連れ立って『トレモロ』の外へ出た。 「今日は少し、暖かいですね」  彼女の言うとおりだった。肌に触れる風はまだ冷たいものの、日の当たるところへ身を置けば自然と体がぬくもりに包まれる。  ええ、本当に。自然と彼女の目を見て、ゆっくりとうなずき返した。 「夫はもちろん、私も……宮永さんの撮ってくれた写真にはすごく満足してます。それだけは誤解しないでください。あ、そうだ、よかったらこれを召し上がってください」  彼女が俺に紙袋を差し出した。厚みがあり、持ち手の紐の造りからしても気品がある。 「宮永さん、甘いものはお好きでしたか?」  特別好きでもないが、こういうときは素直に肯定しておくのが社会人としてのたしなみだ。はい、と返事をしながら中身を見ると、丁寧にサテンのリボンでラッピングされた数種類のクッキーが入っていた。勘が働く。 「たしかご夫婦でパティスリーを営んでいるんですよね?」 「はい、オープンしたばっかりで不安もたくさんあるんですけど。だからちゃっかり宮永さんにも営業かけておこうかなと思って、持ってきました」  いくらなんでもそれが彼女のやさしい嘘であることはわかった。  俺がうまく撮れなかっただけのワンシーンでも、彼女にとっては「別の角度のものを要求し、再度探させてしまった」ことは迷惑行為という認識なんだろう。  そんなはずないのに。この場で悪いのは、俺ただ一人だ。 「ぜひいつでもいらしてくださいね」  最後に彼女は俺に笑いかけ、二度と振り返ることなく去っていく。  春の陽光を浴びながら揺らめく彼女の白いスカートは、俺が先日写真に収めた彼女のウエディングドレスのようにも思えて、どうにもすぐに動き出せない。 「春輝」  呼ばれて振り向くと、ユニフォームにきっちりと身を包んだともちゃんがドアの前に立っていた。ランチメニューの時間帯が過ぎ、どうやら表の立て看板を下げにきたらしい。 「なんか揉めた感じ? 撮れてなかったとか?」  いつになくともちゃんの表情は硬い。店の中での彼女とのやりとりを聞いていたんだろう。いつまで経っても俺はともちゃんの弟分という立場から抜け出せないみたいだ。 「一応撮り押さえてはいたけど、サプライズの瞬間だったから……俺の反応が遅れて、引きの写真しかなかった。お金貰うのが申し訳ない」 「でもスナップ撮影って基本的にそういうもんじゃないの? ポスターのときみたいな撮影とは違ってみんな好き勝手に動くし、運要素も大きい。春輝が必要以上に落ち込む必要はないんじゃないかって思っちゃうけどなあ」  素人がなに言ってんだ、って思われそうですけど。そう付け足し、ともちゃんは気まずそうに頭を掻いた。 「写真、続けていけそう?」  すぐには答えられなかった。  俺が写真に賭ける情熱なんて、強い風が吹けば一気に消し飛んでしまうほどの弱い火でしかない。  それでもまだ燃えている。  俺ですら気づかないうちに絶やさないようにしていたそれを、今度は自分の手で必死に木をくべ、燃やし続けている。  でも、このままでいいんだろうか。  大きな失敗を恐れ、安全な場所から写真を撮り続けることは、本当に俺の理想なんだろうか。考えれば考えるほど、手が止まりそうになる。  そうだ。俺はもうずっと怖いんだ。  誰かの人生を揺るがすほど大きく踏み込んで、その一瞬を『作品』に変えてしまうことが怖い。  かつて自分が『贋作』という作品であったように、自分の手で見せ物に変えてしまう恐怖が、あと一歩の距離を拒む。  彼女が立ち去った道を今一度見る。  日差しの強さのせいか目に痛みを覚え、すぐにまた顔を背けた。

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