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第六章 Spring fill in the blank 1-2
ともちゃんに別れを告げ、俺は久しぶりに『スタジオlumina』を訪ねた。
ミノリにスタジオ見学を頼んで以来の来訪になるため、インターホンを押すのもまだちょっとした勇気が必要だった。
「いらっしゃいませ」の声とともにドアが開く。
「春輝さんじゃないですか、今日はどうしたんっすか」
出迎えてくれたのは笹川さんだった。
彼とこうして顔を合わせるのも久々だ。だけど日頃からミノリの口からよく聞かされる名前でもあるためか、最初に出迎えてくれたのが彼でよかったと、人知れず胸を撫で下ろす。
「あの、実さん、いますか」
ミノリの名前を出すと、笹川さんはパッと顔色を明るくした。
「もちろんいますよ。でも今ちょうど撮影中で……春輝さんを中に入れてあげられないというか……」
声を潜めながら、笹川さんが自分の後ろにあるスタジオを気にするような素振りをした。つられて耳を澄ませてみると軽く言い争うような声が行き交っていて、なにやら物々しい雰囲気だ。
「……えっと、大丈夫なんですか?」
「今日のモデル、ちょっと気難しい人なんっすよ。最近は実さんもモデルの言いなりになるのやめたみたいで、どうもこんな感じでやり合っちゃうんですよね」
あの流されるように生きてきたミノリが、誰かと口論するほどに撮影に熱を入れ上げているなんて。
少し前までのミノリからは、想像もできない変貌っぷりだった。
そんなミノリに思うところがあるのは俺だけじゃないらしく、笹川さんもまた俺と目を合わせながら、意外ですよね、と笑ってみせた。
「大変なときに来てしまったんですね、俺」
「いえいえ、春輝さんが謝ることじゃないですってば」
「でも俺はもう帰ります。だから笹川さんからこれを渡しておいてくれませんか」
持ってきていたカメラバッグの中から、ズームレンズを取り出す。受け取りながら俺とレンズを交互に見る笹川さんへ、実さんの忘れ物です、と補足をいれる。
「え、ちょ、ちょっと待ってくださいって春輝さん!」
踵を返そうとすると、笹川さんが慌てて声をあげて俺を呼び止めた。
「もしかして、春輝さんと実さんってそういう関係ですか」
「……そういうって?」
しらを切ろうとする俺に構うことなく、笹川さんは物理的な距離を一段と詰めてくる。
「実さん、レンタル辞めましたよ」
「それは、知ってます」
「それでも会ってるってことは、付き合ってるってこととイコールなんじゃないんですか?」
このまま肯定してもいいんだろうか。
忘れ物を届けにきたぐらいのレベルならまだ「友達」で押し通せるだろうが、その予想を軽く飛び越えた笹川さんの様子からして、彼もすでに思うところがあるのだろう。
しかし、ミノリの職場の人間関係にまで口を挟むのはどうにも気後れしてしまう。言うのも言わないのも、ここではミノリが決めるべきことだ。
また一歩後ずさると、ダメです、とすぐさま制止が入った。
「絶対帰らないでください。帰るならせめて、実さんの顔見てからにしてください。このまえのスタジオ見学のとき、春輝さんを素直に帰しちゃって、あのあと実さんにガチで詰められたんっすから」
だからお願いします。笹川さんが勢いよく頭を下げた。必死に頼み込んでくる笹川さんに呆気にとられていると、そんな彼の頭をぽんぽんと軽やかに叩く手がある。
「笹川。ちょっと声が大きい」
笹川さんの背後から現れたのは、話の渦中の人であるミノリ本人だった。
「ね、静かに。クライアントの人たちも来てるから」
立てた人差し指をすっと自分の口元にあてがうその一連の動作は、ミノリの風貌も相まってかひどく様になっていた。
ただ仕事モードがまだ抜けきらないのか、ミノリの顔にはいつものおだやかさはない。さっきまでモデルと口論していたというなら尚のことだろう。
「その、春輝さんがこれ届けてくれて、でも実さんに会わずに帰ろうとするからつい……」
「え、うそ、ハル? なんで?」
ようやく俺の存在に気づいたらしいミノリと思いきり目が合った。軽く手を挙げて、視線に応える。
「俺の家にレンズを忘れてたから持ってきたんだ。忙しいのに邪魔してごめんな。もう帰るから」
「待って、まだ帰らないで」
笹川さんの目の前だというのに、ミノリは俺の腕を掴んだ。
関係性が筒抜けになりそうな気恥ずかしさと、顔を少しでも見ることができた喜びで、頭の中がぐるぐると渦巻く俺をよそに、ミノリは笹川さんにレンズを託してしまった。
「ごめん、笹川。ハルをビルの下まで見送ってくる。今、十五分間の休憩タイム中だけど、トラブルとか撮影早まりそうなら俺をすぐに呼びに来て」
「了解です。あ、春輝さんも、またいつでも遊びに来てください」
大きく手を振る笹川さんへ、取り繕うように会釈する。
ゆっくりとドアが閉まっていく。笹川さんがスタジオの中へと戻っていくのを届けてから、階段に向けて足を踏み出した。
しかし階段の踊り場にたどり着くなり、ミノリに正面から強く抱きすくめられる。
スタジオは目と鼻の先だ。危険な橋を渡っているとわかっているのに、俺はミノリを突き放せない。
「ミノリ、ダメだって……」
迫るミノリの顔を手のひらでやんわりと遮る。そんなささやかな抵抗もむなしく、俺の手のひらに向かってミノリが軽く音を立てて口づけた。
それだけで昨夜の情事の記憶が、余韻となって呼び起こされる。
体が熱い。このまま続けば外側だって簡単にどろりと溶ける。理性的な人間の形なんかあっという間に保てなくなりそうだ。
「頼むから……おまえの仕事場を汚したくない」
「わかってる。これ以上はしない。ハルのこと、ちょっとからかいたくなっただけ」
場違いにもほどがある。未だ解放してもらえない腕の中でもやもやとした気持ちのまま見上げれば、ミノリはうれしげに目を細めるばかりだ。
「ハルさ、俺にすげえ甘くなったよね」
額を突き合わせたまま、ミノリが言う。
今にも笑みを形作った唇がこのまま触れ合ってしまいそうで、心臓が落ち着きを取り戻せない。
「昨日だってそう。早く寝ろって俺のこと突っぱねてたのに、結局最後まで付き合ってくれた」
「それで寝るのが遅くなったし、忘れ物なんかするんだろ」
「それはごめんね。反省してる。でもちょっと前までのハルなら、俺をここまで甘やかしてくれなかったなあって」
「おまえが頑張ってるの、いつも見てるし」
「本当にそれだけ?」
甘えをたっぷり含んだ上目遣いになにもかも見透かされてしまいそうで、言葉が詰まる。
忘れ物を建前にして、のこのこと会いに来てしまったのは俺の方だ。
『トレモロ』での写真の一件さえなければ、きっと俺は遠慮した。忘れてるよとメッセージだけ送っておいて、改めて会ったときに渡せばいい。
それでも俺の手はもうとっくにミノリの背に回っていて、どちらが甘やかしている状況なのかわかったものじゃない。
「なあ、今モデルと揉めてるんだって?」
「うん、ちょっとだけね。あっちもこだわりが強いから、お互い譲れなくて……まあ、楽しいけど」
そうだ、とミノリが体をわずかに離して顔を明るくする。
「お仕事頑張ってる俺に、今日もサービスしてよ」
「流石に今日はちゃんと家に帰れ」
「えー」
「個展の準備で忙しいのに、俺の家で泊まってる余裕なんかもうないだろ」
「それはそうだけど」
ミノリが甘えるように頬を擦り寄せてくる。
「ずっと一緒にいたい」
消え入るような呟きが、耳をじわっと熱くする。ビルの外から聞こえる喧騒が、胸から伝わる心臓の音と混じり合って、夢と現実の境目がぼやけてしまいそうだった。
写真と俺をどっちも大事にしろなんて、ひどく大それた願いを押しつけてしまったものだ。今更反省しても手遅れだけれど。
「今日は俺がおまえの家に行くから」
たったそれだけのことを言うのに、いつも以上に時間を要した。そしてミノリはいつだって急かさない。俺の気持ちが言葉に置き換わる瞬間を、辛抱強く待とうとする。
「いいの?」
無言でうなずいた。言えた分だけ軽くなる体を、ミノリの腕だけが地上に繋ぎ止めてくれる。
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