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第六章 Spring fill in the blank 1-3
ミノリの個展開催までは残り一か月を切っていた。
マイペースにミノリが準備を進めるあまり、側から見てる分には決して順調とは言い難い状況だ。
「嘘だろ、まだDM配ってないのか」
昼間に『スタジオlumina』で交わした約束どおりミノリの帰宅に合わせて家へ寄ったはいいものの、準備物で荒れた部屋の真ん中で俺は愕然としてしまった。
そんな中でもミノリは脇目も振らず、刷り上がってきた色校正をチェックし続けながら言う。
「写真選びとか印刷所の選定とか、そっちの方で手間取っちゃって、DM関係は全然手をつけてない」
多くの人に足を運んでもらい、個展を無事成功で終えるには、いかに自分でプロモーションを積極的に行うかにかかっている。
DMを置かせてもらえる店舗にきちんと約束通りの枚数を納品するのだって、来場者の動線を確保する一つの大事な手段だ。
「最悪配布できなくても、SNSで告知すればいいかなって」
呑気な発言に思わずついたため息は、部屋にむなしく散っていく。
先日ミノリは『UTSUGI.M』の名前を完全に捨てた。
今のミノリは『卯木ミノリ』という名前で活動を行っている。
本名とはまた違う。でも『レンタル彼氏』として生きた自分も捨てたくない、とミノリは名前の由来を俺に教えてくれた。
これですっきりした、と清々しい顔でミノリがそう付け加えたのを覚えている。
『卯木ミノリ』の名前とともに新設したSNSは、当然ゼロからのスタートだった。
スタジオで従順に飼われ続けたミノリの知名度は、関係者ならまだしも一般人相手には無名同然だ。このままいけば個展の盛況なんて夢のまた夢で終わるんじゃないかと、俺だけが毎日のようにどこか焦っている。
「でもあの写真がネットで話題にならなきゃ、SNSの告知も絶対苦戦してたぞ? こんなふうにあぐらかいてる余裕なんかなかった」
散らかった雑誌や書類、洗濯物を軽く片づけながらぼやく。回転椅子に座ったまま「そうかな」とミノリが振り返った。
「撮影した彼女がインフルエンサーだったっていうのもラッキーだったよな」
「なんで?」
「拡散力が違うだろ」
「あー、まあね。でも俺、別にあのときは彼女がインフルエンサーだって知らなかったし、彼女と夕方のネモフィラ畑がいい感じに似合ってたから撮ろうと思っただけなんだよなあ」
「……それは、うん。わかる。いい写真だったよ、あれは間違いなく」
事の発端は夕焼けを浴びて輝くネモフィラ畑と、その真ん中で佇む一人の女性の写真だった。
車を走らせて他県の広大な森林公園へとあるとき撮影に出向いたミノリは、その場に居合わせた女性に頼まれ、写真を撮ってあげたのだという。
西日が差し、濃い陰影を生んだネモフィラ畑は深海にも似ている。
一日の終わりを思わせる光の中で、満面な笑顔を浮かべる彼女。
一抹の幸せが滲む構図と光の扱い方は、彼女のSNS投稿を皮切りに波紋を呼んで、生配信中の彼女の口から『卯木ミノリ』の存在が明らかになったのだった。
「でもそのおかげでフォロワー増えたし、こうして俺を知ってもらえるのはありがたいことだよね」
「本当にそう思ってるなら、もっと真面目に運用しろよ」
おかげでミノリのアカウントは一晩で数千を超えるほどのフォロワーがついた。
この機会を逃す手はない。
しかしミノリの興味関心はいつも薄い。
今だって好きにさせておけばミノリは本業の写真にばかり時間を割いてしまうし、SNSの更新に関してもマメじゃない。ただ当の本人は連日ひたすら楽しそうで、それだけが救いといえば救いだ。
ついため息をこぼしてしまい、ミノリからは苦笑がもれた。
「ひとまずハルにさえ見てもらえたら、俺の中では個展やってよかったなあって思うけど」
すっかり定型文になってしまった言葉が返ってきた。
レンタル彼氏を辞めたミノリの承認欲求の矛先は、今や俺だけに向けられている。
「またそう言う。それだと開く意味がない。普段の成果を披露する目的もあるけど、普通は自分の知名度を上げるためにやるもんだろ。活動してるってだけで企業やファンへの安心材料にもなるんだ」
「そんなとこまで考えたことなかったなあ。ハルはやっぱり真面目だね」
真面目。その台詞も、こうして折に触れて準備を手伝う間に何度聞かされたことか。
ミノリにはわからないんだろう。写真の世界から一度は名前を消して、それにどれだけ俺が胸を痛めたのか。
そしてどれだけ自分勝手に想いをこじらせてしまったのか、ミノリにはわからない。
せっかくデザイナーに頼んで作ってもらったDM用のポストカードが、まっさらの状態で部屋の隅に置かれている状況にだって真面目な俺には耐えられなかった。
「なあ、DM置いてもらう店舗のリストはあるのか?」
そう言うと、ミノリは目を丸くした。
「リストなんて作ってないよ」
「じゃあ、メールで約束取り付けて、そのまま放置?」
「そう」
なんとなく予想できていたことなので、もう文句は言わない。そもそも手伝うことを念頭に入れて、ノートパソコンを持ってきている時点で、黙って手を動かすべきだった。
「こっちのローテーブル借りる。今日中にDM関連は俺が終わらせるから」
表計算ソフトを立ち上げる。ミノリがやり取りしたメールの中から住所を吸い上げ、一覧表へと無心でまとめあげる。
次の機会があるかはわからない。でも店舗と置かせてもらった枚数をリストでまとめておくだけで、今後の作業は少しだけ快適になるだろう。
「わ、すご。住所録作ってくれてる」
キッチンから飲み物を取ってきたミノリが、通りすがりにノートパソコンを覗き込んでくる。
「簡単な表計算なら、おまえも作れるだろ?」
「どうかな。学校の授業で確かに習ったけど、今はほとんど触らないから」
「まあ、向き不向きはあるか。俺は普段、経理兼雑務が仕事だから扱いに慣れてるだけだよ」
再び作業に戻ろうと前を向いた瞬間、頬を指でなぞられる。隣を見れば、今度は唇に濡れた感触があった。
「よし、もうちょっと頑張る」
最後に俺の頭を撫で、ミノリはあっさりとパソコンデスクへ向かった。
しばらくそのまっすぐな背中を眺めていたが、このままではいけないと意識をパソコンの画面に戻す。
だが、さっきまでの集中力がなかなか取り戻せない。
「なあ。俺、コンビニ行ってくるけど」
呼びかけても返ってきたのは、んー、と気のない声だった。
仕方がない。若干のさみしさはあるが、今は作業が最優先だ。
できるだけ物音を立てないように部屋を出て、近くのコンビニに向かった。
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