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第六章 Spring fill in the blank 1-4
適当に飲み物と夜食代わりになりそうなカロリーバーやゼリーを買い、最後にふと思い立ってミノリが好きなイチゴ味のグミをカゴへ放り込んだ。
マンションに向けて帰る途中、デニムのポケットの中にあるスマホが震える。
相手はともちゃんだ。
――夜遅くにごめんな。
謝罪から始まったともちゃんからのメッセージは、来週末に予定されていた撮影のキャンセルを知らせる内容だった。
赤でもないのに、横断歩道の手前で足がぴたりと止まる。
わかった。気にするな。たったそれだけを打つのでさえ時間がかかり、キャンセルの理由は聞き出す気にはならなかった。
ショック、ではあると思う。でも撮影のキャンセルなんて業界ではよくある話で、いちいち気にしていたら身がもたない。
むしろ予約が立ち消えてよかったとすら思ってしまう弱腰な自分がいて、薄ら笑ってしまった。
いくら俺の持つ目でシャッターチャンスを読み取れても、心で踏み留まるのなら、いつもと変わらない撮影が繰り返されるだけだ。
克服するための策もないまま撮影に挑むほど、俺は愚直にはなれない。
ぽつぽつと灯る外灯をぼんやりと眺めながら、時間をかけてマンションに戻ると、家を出たときと変わらずミノリはパソコンの前にいた。
「ミノリ、これ買ってきたから」
パソコンデスクの上に商品の入ったレジ袋を置くと、ミノリは俺に焦点を合わせるなり、ぱちぱちとまばたきを繰り返す。
いつもやられてばかりだからこそ、ミノリの動揺を誘えるのは少しだけ気分がいい。
「俺、ハルが外に出てたの知らなかった」
「気にすんな。気分転換したかっただけだから。ミノリの好きそうないちご味のグミも買っておいた」
「ありがとう。じゃあ俺、ハルのためにコーヒーでも淹れる。温かいやつ」
アイスコーヒーがいい、と即座に不満げな声をあげれば、我慢してと俺の腕を引っ張り、頬にキスをされた。
「あ、やば」
ミノリが椅子から立ち上がったそのときだった。デスクの上にあった印刷所から上がってきた色校正にミノリの手が当たり、紙が床へと散らばっていく。
「いい、俺がやる」
しゃがみ込もうとしたミノリを制し、腰を屈めながら散らばったそれを丁寧に一枚ずつ拾い上げた。
今回の個展のコンセプトは「春の訪れ」だとミノリからは聞いていた。
安直な発想で春らしい植物や生き物がメインで構成されるのかと思いきや、色校正の中には高い頻度で人物のポートレートが混ざる。
バスの座席に差し込む淡い日差しと、それを掴もうとする赤ん坊の横顔。桜並木を駆ける学生たちの後ろ姿。庭先の花を剪定する皺の寄った、あかぎれのある手先。
数々の写真に目を通し、最後に拾い上げたのはあまりに予想外の被写体だった。
「なんで……」
絞り出した言葉は、惨めなほど震えていた。このまま握りつぶしてしまいたいほどの衝動に襲われ、でもそうしないのは、ミノリが写真にかけるおそろしい熱量を知っているからだ。
「ごめん」
ミノリがゆるやかに膝をつく。そっと俺の手から色校正を取り上げると、沈痛な面持ちでまぶたを伏せた。
目線の先にある色校正には、許可した覚えのない俺の姿が写っていた。
「なあ。なんでここに俺の写真が混ざってるんだよ。個展に飾るつもりだったってことか?」
「……本当はもっと早く打ち明けようと思ってた。でもハルが嫌がる気がして、なかなか言い出せなくて」
「そんなの当たり前だろ? 怖すぎるんだよ」
崩れ落ちそうになる自分を鼓舞しようと、無理やり笑った。でも喉を掠めるのは乾いた笑い声ばかりで、自分の痛ましさを披露するだけだった。
「俺なんかの写真を飾ってどうするんだ。大事な個展なんだぞ? そこの一枚に俺の写真? つい最近まで引きこもって人の目に怯えて暮らしてた、情けない俺の姿を晒せって? 冗談もいい加減に……」
「ハル」
右手に痛みが走る。視線を向ければ、諌めるように俺の手をミノリが握りしめていた。
「もっとちゃんと写真を見てよ」
ミノリが再び色校正の紙を床に置く。ぞっとするほどやさしく。まるで著名な画家の絵画を差し出すかのように。
「すげえいい顔で笑ってる」
薄目で見る。だけどいつしか見ずにはいられなくなった視界の中で、甘やかなピントと多くの光に包まれたうつむきがちなその顔は、気恥ずかしそうにはにかんでいる。
いつ撮られた写真なのか、俺はもう覚えてすらいない。
ミノリは俺をたくさん撮った。撮られることが俺の日常になめらかに溶け込んでしまった。
レンズとの距離は俺の心を見透かせそうなほど近くなり、好きだなんだと撮影の合間に言葉を注がれて、それが当たり前のことになってしまった。
「ねえ。俺、ハルの写真を飾りたい。諦めたくない」
首を横に振る。
さっきから耳の奥では、無機質なシャッター音が鳴り止まない。
「ハルのことを作品だと思ったことはない。でも今の俺を最高の状態で表現できるのは、ハルを写した写真しかなかったんだ」
嫌だ、もうなにも言うな。
何度首を横に振っても、ミノリは話をやめなかった。
「俺も本当はまだちょっと怖いよ。個展開いて、また誰かに好き勝手に評価されて、いつ写真ごとこの界隈から見放されるかわからない。なのにどれだけ怖くても、ハルを撮りたい気持ちだけはもう抑えられない。その気持ちを隠したまま、フォトグラファーとして生きたくないんだ」
永遠の愛を神さまに誓うように、ミノリが両手で俺の手をそっと包んで口づける。
しかしどれだけ乞われても認めたくなかった。
写真を見て、謂れのない事実や憶測を立てて、作品となった俺の姿に他人が評価を下す。
そのままミノリの評価にまで繋がって、足を引っ張ることになるかもしれない。俺を飾ったばかりに。
夜野さんの傍にいたころ散々味わった、他人の評価が独り歩きしていく感覚が強くぶり返す。俺の体を否応なく拒絶へと染め上げる。
「俺が……」
弾かれるように顔を上げた。なにかを言おうとして、でも言えないままミノリの顔が苦しそうに歪んでいく。
「俺が、なに」
訊ねると、ミノリの瞳がかすかに揺らめいた。
「……俺が、ハルを好きにならなかったらよかった?」
勢いよく手を振り解き、ミノリの体にまたがって床へと押し倒す。ミノリが背中を打ちつけ、ドンと鈍い音がした。
「そんなこと言うな!」
泣き笑うように歪んだミノリの祖母譲りの瞳に見つめられて、ことごとく気持ちが掻き乱される。
ミノリを追いつめ、苦しめた果てに言わせたものがあまりに重く体にのしかかり、愕然としながらミノリの胸に縋りついた。
「嘘でも……そんなこと言うなよ……」
ミノリのことが好きだ。大切にしたい。幸せにしたい。そうした願いはあっても交わらない価値観は俺たちに軽々しくひびを入れる。
ああ、今のミノリは幸せじゃない。
握りしめたミノリのシャツにぐしゃりと深い皺が刻まれ、それすらも見ていたくないと思った。
「ごめん。やっぱり、飾らない」
随分と長い間、ミノリの上に折り重なっていた。
俺を労わるように背中を撫でられ、そろそろと顔を上げる。
「ハルの写真は、飾らない。だから、安心して」
よかったと胸を撫でおろしたのも束の間、そう思ってしまったことに自己嫌悪する。
ミノリが欲しがる言葉を返してやれないまま、ミノリの手にただ甘やかされ続けた。
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