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第六章 Spring fill in the blank 2-2
規則正しい生活を意識したことはあまりなく、しかし金曜日はさすがに朝早く目が覚めた。
ミノリと過ごさない休日は、久しぶりだった。
冷蔵庫にあった納豆とごはん、インスタントのお味噌汁で朝ごはんを簡単に済ませる。さて、と周囲を見渡せばやるべきタスクはいくらでも目についた。
仕事のある平日は洗濯物を溜めがちで、掃除は週に一度かければいいほうで、カメラの手入れもしてやりたいとなると時間のなさに気持ちが焦る。
だというのに優先順位がつけられない。
気もそぞろのまま床に座り込むと、どうにもそこから動けなくなった。
『桜前線は、東北のあたりまで北上中。週末にかけて比較的おだやかな気候になるでしょう』
朝のニュースでは、キャスターが淀みなく原稿を読み上げている。
情報に流されるがまま、開け放った窓の外を見た。地球の外側を覗ける勢いで澄んだ青空に、軽やかそうな綿雲。
晴れだ。ミノリによく似合いの、晴れ。雲は風に流され続け刻一刻と姿を変え、部屋の片隅で留まる自分が惨めに思えた。
ミノリは今、自分が理想とするフォトグラファーのレールの上を走っている。この個展が無事終わればそのレールはまたさらに伸びて、ミノリも走る速度をあげるだろう。
でも、俺はどうなる?
レールをひた走る今のミノリと、俺は同じ速度でこれからも走り続けられるんだろうか。
このままあいつの才能に灼かれて、燃え尽きるのが先か。レールから振り落とされるのが先か。
どちらにしても、あいつが俺に本気で求めた「個展に飾りたい」という切望すらぞんざいに断ってしまうような男に、ろくな未来は用意されない気がした。
愛の受け取り方は覚えても、返し方は依然として下手なままだ。
テレビの前から動けないまま十時が過ぎ、ミノリから「いってくるね」とメッセージが入った。
搬入は十一時から。今回のためにミノリは社用車を借りたらしい。展示作品の大半を職場に置かせてもらっていることもあり、なんだかんだ『スタジオlumina』のオーナーもミノリに甘い。
気をつけて、とだけ返す。すぐに既読になって、でもいつまで経っても返事はなかった。
急激に不安になる。
最中に怪我はしていないだろうか。明日までに設営が終わるんだろうか。
くそ。みっともなく駄々をこねてしまえばよかったんだ。
やっぱり俺も連れて行ってほしかった。フォトグラファーとして。
合鍵なんかでは、こればかりは満たされない。
居ても立っても居られなくなり、家を飛び出した。電車を三十分ほど乗り継ぎ、ミノリのいるギャラリーを目指した。
やがて着いたギャラリーは、ヨーロッパの一軒家を思わせる外観だった。
尖った赤い屋根と、白の壁。経営不振で閉店したカフェの跡地をそのまま借り上げ、内装以外はほぼ当時のままなのだとミノリが教えてくれた。
ギャラリーの出入口付近に人影を捉える。もう少し近づいていくと、ミノリ、そしてその奥にキャップをかぶった笹川さんの姿が見えた。
各々飲み物を手にしているところを見ると、今は休憩中なのかもしれない。
「実さん、それマジで言ってるんですか? 一番目立つスペースを空白のままにするなんて、正直ありえないですって」
笹川さんの剣呑な声に驚き、咄嗟に路地へと身を隠す。
息を潜めながら、二人の動向を見守った。
「だってもう決めたし」
「考え直してくださいよ。名前も変えて再出発、なのにその記念すべき一発目の個展に、これじゃあ穴を空けるようなもんじゃないっすか」
笹川さんがミノリに食い下がる。しかしミノリの声はどこまでも淡々としていた。
「俺を説得しようとしても無駄だよ」
「そんなあ」
「あそこに飾りたい写真は一枚だけなんだ。でも本人の気持ちを無視して飾りたいとも思わない」
「それなら別の写真で埋めましょう。とにかくあのスペースをなにも飾らずに置くのは、絶対見に来てくれた人も驚くというかガッカリするというか……」
ミノリが鼻で笑う気配があった。それからペットボトルに入った水を飲んで、荒っぽいため息をつく。
「好きなだけガッカリすればいいよ。それでまた評価が地に落ちるなら、俺の写真人生もそこまでだったってことで」
「実さん!」
歩き出そうとしたミノリに、笹川さんが立ち塞がる。その勢いのせいか、笹川さんのかぶっていたキャップがぱさりと地面に落ちた。
「飾りたいのは、春輝さんの写真っすか」
咄嗟に悲鳴をあげそうになって、声を殺すためにぐっと奥歯を噛みしめる。
「なんでわかったの?」
ミノリがゆっくりとしゃがみ込み、笹川さんのキャップを拾った。
「春輝さんと出会ってからの実さんはわかりやすいです」
「……そっか。笹川、ごめんね。そういうわけだから」
「それでも納得できないです。もっと違う方法はないんですか。春輝さんのために、空白を貫く理由ってなんなんですか」
「ハルは、俺の心臓みたいなものだから」
こちらに背を向けてしまったミノリの表情はもう見えない。付着した砂を払うように、ミノリの手がぽんとキャップを叩いて笹川さんの頭に乗せた。
「ハルの代わりなんてどこにもいない。別の作品を飾るぐらいなら個展は中止でいい」
喉が太陽に灼かれたようにひりついている。あまりの痛みにうずくまるとコンクリートの上に濃い影が生まれ、あの日のミノリの残像が浮かび上がる。
――俺、ハルの写真を飾りたい。
そう話し合いをした日から、ミノリは俺の写真の話を一切口にしなくなった。本当に綺麗さっぱり諦めてくれたのだと内心ほっとしていたが、前提がそもそも間違っていたんだろう。
『トレモロ』から逃げ出す俺を追いかけてきたときも。
まともにセックスできない俺を相手にし続けたことも。
『レンタル彼氏』という商品にすがって、ミノリを利用してしまったときも。
ミノリはしつこいぐらいに俺への好意を崩さなかった。
そして今また、諦めきれないという身勝手な理由で、俺の存在を「空白」のまま世界へ刻もうとしている。
「……実さん、結構重いっすね」
しばらくして、笹川さんの諦め混じりの声が流れてきた。続けて鼻を鳴らす気配があって、ミノリが苦笑したのだとわかった。
「俺もそう思う。でもこの重さが俺の体にはちょうどいいよ」
「春輝さんがこのこと知ったら嫌がらないっすか」
「嫌がるかなあ。そうだとかなしいな。卯木ミノリはそういうフォトグラファーにしかなれないのに」
「それか、飾るのを春輝さんに一生許されなかったら?」
「個展を開くたびに、空白を飾るよ」
二人の声が遠ざかっていく。息を整え、ふらつきながら立ち上がる。
もうそこにミノリたちの姿はない。
いまさら搬入を手伝う気にだってなれずさっさと立ち去ればいいのに、俺の足はコンクリートにめり込んだように動かなかった。
身勝手で重い執着なんてもう懲り懲りだ。散々な目にあってきた。
なのに、なぜか少しも嫌じゃない。苦しくもない。そう思う自分はもうどこかおかしい。
大事な個展の「空白」なんて失態でしかないだろう。
わかっていながら「空白」を残すミノリがぞっとするほど怖い。それでいて純粋で、偏執的な情熱はたまらなく俺を焦がす。
俺が笹川さんの立場ならきっと彼と同じくミノリに詰め寄っただろうに、今の俺はこの愚かさが喉から手が出るほど欲しい。
あとは自分の全てをミノリに捧げる勇気だけ。その勇気が、今の俺にはまだ足りない。
あと少し。ほんの少し。
ゴール目前で止まってしまった、ドミノのように。
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