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第六章 Spring fill in the blank 3
「あ、わかったかも。この前、ユーにゃんの写真でバズってた人でしょ」
「そうそう。ユーにゃんとネモフィラ畑のやつね。やっぱさ、卯木ミノリって撮るの上手すぎじゃない?」
斜め向かいに座る、女子大生らしき二人組から聞こえてきた話題に気を引かれたタイミングで駅に着いた。電車内の乗客が入れ替わり、新鮮な空気が入ってくる。
ドアが再び閉まると、彼女たちの声はさっきよりも熱量を帯びた。
「でもさ、ユーにゃんにハマるのはまだわかるけど、なんでまた卯木ミノリ? 普通フォトグラファーにまで興味出なくない?」
「それがさあ、見てこれ! 卯木ミノリのビジュ、マジでいいから!」
「え、なにこれ、ヤバ」
スマホの画面をもう一人の女子に向かって見せた途端、彼女の声が裏返った。
「このビジュでフォトグラファーやってるとか、意味わかんないんですけど」
「でしょ? だったらこのまま卯木ミノリの個展行こうよ。今日からなんだって。在廊するって告知に書いてあるから、生で本人に会えるっぽいし」
「そんなん行くしかないじゃん。ってかもっと早く誘ってよ、推しに会うなら今日のヘアメもっと頑張ったのに」
しばらくミノリの話題を口にしていた彼女たちは、次の駅で降りていった。
本当なら俺もギャラリーに向かうため同じ駅で降りなければいけなかったのに、彼女たちに紛れて目指す気にはなれなかった。
肩を丸くする。スーツに身を包んでいる俺は、外から見れば残業疲れのサラリーマンに見えなくもないだろう。
こんなにも気が重くなるのは、俺に与えられた「空白」のせいだ。
ミノリと笹川さんとのやり取りを聞いてから一晩中考え続け、結局明確な答えが出せないまま、とうとう個展の当日を迎えてしまった。
スマホを確認すると、数分前にほのかから写真とメッセージが送られていた。
見知ったギャラリーの外観を前に、ミノリとほのかのツーショット。ミノリの手には小さなブーケが握られている。ほのかからの祝いの品だろうか。
――ハルちゃんが見に来てないって、ミノリが心配してるけど。
そろそろ行くよとほのかに返信し、次の駅の到着アナウンスで席を立った。肩に背負うカメラバッグの重さに耐えながら、折り返すために反対路線のホームを目指した。
やがてギャラリーが見えてくる。
開けっぱなしにされたドアの前で何度か深呼吸をしてから中に入ると、想像していた以上に多くの人で賑わっていた。
呆気にとられる。
商業で名の売れた大物ならまだしも、再び駆け出した若手のフォトグラファーに、ここまで人が押し寄せている光景はあまりお目にかかれないだろう。
しかもその大半は女性客だ。SNSの拡散力は本当に侮れない。
肝心のミノリはというと、来客の対応に追われっぱなしだった。俺が来たこともまだ気づいてない。
女性客を前に『レンタル彼氏』だったころを彷彿とさせる笑顔を浮かべていて、ただでさえ複雑な心模様がもっと小難しい絵図になる。
「あの、今回の作品の中で、海の写真が好きです。二人のサーファーが一つのボートに掴まって、水平線を眺めてるやつ」
一人の女性客がミノリに話しかけると、連れのもう一人もまた弾んだ声をあげる。
「あ、私もそれ好き!」
「ありがとうございます。なにかちょっとでも心に残ればうれしいなって思って……」
やってしまった。つい不躾な視線を送り続けてしまい、バチッと火花が散るようにミノリと目が合ってしまった。
そして予想どおり、ミノリが目の前の女性たちを蔑ろにしてまで俺に向かってこようとする気配を感じ取り、俺はすぐに首を横に振る。
来なくていい。おまえは目の前のことに集中してろ。
ミノリの目が不服そうに歪む。そんなミノリを見て、胸が痛まないわけじゃなかった。
でもミノリの行く道を考えると、今はこれが最善なのだと自然に思える。そこに自分を卑下する気持ちがないのが、いっそ不思議なぐらいだった。
順路に沿って、じっくりと展示を眺める。
コンセプトを「春の訪れ」と謳っておきながら、作品は少しずつ季節を移ろう。
繊細なまでにコントロールされた光の量。ニュアンスで伝えられる四季。
そして写真の中には必ず日々を営む人の気配がある。
写真と対峙するたびに、頭の中がじんと痺れる感覚に襲われた。
「ねえ、なんでこのスペースだけなんにも飾ってないの」
「飾るの忘れてるだけじゃない?」
「じゃあ明日また来たら展示されてる?」
「いや、わかんないけど。あ、でもタイトルプレートだけは飾ってあるじゃん。ほら」
「えっと『心のままに』か。えー、なんか意味深。ってかどんな写真なんだろ、見たかったあ」
壁の「空白」の前で声をひそめて話していた客たちが離れていく。
ぼうっと立ち尽くす俺の隣には、その後も代わる代わるいろんな客がやってきた。どの人間も決まって不思議そうな顔をする。もしくはさっきみたいな会話をなぞらえて、残念そうに立ち去っていく。
飾られない本当の理由を、みんなは知らない。
ミノリが世界に差し出した「空白」は俺のためにある。でもあのとき俺が拒絶したことで、くっきりとした穴になって残ってしまった場所でもある。
――自分が好きと思ったものを撮ればいい。
――答えはあなたの心が教えてくれる。
そうしたミノリの祖母の教えのまま、ミノリは愛を俺に写真という形で与えて、長年ともにあった俺の空虚な場所をしっかりと埋め尽くす。
もうどこにも余白がない。雑念も、ミノリ以外の誰かが入る余裕も。
ミノリから差し出された気持ちが体に満ちているだけで、俺は日々を生かされていく。
さっきから胸の奥では、ちょっとやそっとの雨や風では消せないほどの火が熱えたぎっていた。今すぐどうにかしなければと囃し立てられるようで、ギャラリーを急ぎ後にする。
「ハル!」
カメラバッグのショルダーをきつく握りしめたとき、ミノリに背後から呼び止められた。
振り返った瞬間、ミノリが俺の手を掴む。なのにいくら待ってもミノリは何も言わない。
不安に押しつぶされそうな顔をこちらに差し出すばかりだ。
「……二次会の撮影、行ってくる」
面した外の通りに誰もいないのをいいことに、ミノリの頬にキスした。
一度だけ握り合う手に力を込める。そっと手放すと、残されたミノリの長い指が名残惜しそうに宙を掻いた。
「いってらっしゃい。気をつけて」
ミノリのひとことが、また火を大きくする。
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