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第六章 Spring fill in the blank 4-1
夜から始まった『トレモロ』の二次会パーティーでの撮影は、おおむねプログラム通りの進行だった。
今回の依頼者はノリのいい朗らかな夫婦で、ケーキ入刀やファーストバイト、友人との歓談中にカメラを向けても、わざわざカメラ目線をくれるほどのサービス精神にあふれていた。
今のところ重要なシーンの撮り逃しはない。
『トレモロ』のスタッフから預かった進行表によると、十分後にはパーティーの締めの工程に入っていく。それまではおなじみの歓談タイムらしい。
この間に写真の出来映えを確認しようと壁に沿って立ち、一眼レフの中の撮影データに目を通していたときだった。
「カメラのおにーさん。今日の写真、いい感じに撮れてます?」
新郎友人の男の一人が、酒の入ったグラスを片手に話しかけてくる。相当酔っているのか男の足元はふらふらと危なっかしい。
「ええ、撮れてますよ」
「俺とあいつとの写真も撮ってくれましたあ?」
「はい、もちろん」
しかし、と記憶の底をさらってみる。
この男をきちんと撮ったのは、新郎がテーブルの間を練り歩いていて友人たちに絡みにいったときぐらいだ。高砂席にて行われるプログラム上の大きなイベントでは、この男はいつも後方で見守るだけだった。
当然俺は新郎新婦を中心に撮るため、あまりに距離があるとフレームの中に男は収まらない。
「俺ねー、あいつとね、昔付き合ってたんですよ。とか言ってほんの数か月の話なんですけどね?」
いきなりなにを言い出すんだろうか、こいつは。
酔っ払い男は、酒臭い息を吐きながら俺の隣で壁にもたれかかった。適当に聞き流すべきかと思ったが、男の視線はさっきからずっと新婦の隣で笑う新郎に向けられている。
酔っ払いの戯言では片付けられない気配を感じて、なぜかうなじがぴりぴりとした。
「一時の気の迷いだったって、あいつに言われちゃったんですよね。でもあいつは製薬会社の跡取り息子だから……誰の目から見ても正しい結婚をしなきゃいけなかった」
男は砂のように乾いた笑いをもらした。それからぐっとグラスを傾けて酒を空にすると、千鳥足でフロアの真ん中に向かって歩いていく。
途中大きくふらついて、ほかの友人たちに大丈夫かと体を支えられた。それでも男は伸ばされた救いの手を振り切り、歩みを進める。
男が見据える先にいるのは新郎だ。
――なにか、起こる。
そう思った瞬間、ぶわりと全身が総毛立つ。ネックホルダーから繋がる一眼レフがひときわ重みを増したようで、握る手に力がこもる。
こんなの、ただの思い過ごしかもしれない。俺の勘は大して当てにはならないが、しかし自分の「目」なら話は違ってくる。
あの酔っ払い男の表情はどうだった?
どんな目を新郎に向けていた?
シャッターボタンに置いた指の震えをこらえる俺の視界で、酔っ払い男が突然立ち止まり、肩で息を盛大に吸った。
「俺、おまえのこと、本気で愛してたぞー!」
男が叫ぶ。
脳裏にミノリを初めて撮った日の光景がよぎる。
踏み込んで、笑われて、それでも写真に収めることで、ミノリは俺の作品なんかじゃなく、自分を形作るための世界そのものになった。
「マジかよ、一世一代の大告白じゃん!」
「ほら早く答えてやれよ、新郎ー!」
どっと周囲が湧く。囃し立てる。誰もが男の告白を一種の余興として捉えている。
すみません、ごめんなさい、どいてください。
声を上げ、被写体に向けて踏み出した。
あらゆる来客の間を縫い、ぐんぐんと距離を詰める。
とにかく近づけ。誰よりも近くに。
――撮っても仕方がないものなんてないって、俺はそう思いたいよ。
今ならミノリのその言葉の意味がわかる。俺が今走るのは、自分と、そして彼らのためだ。
走りながらファインダーを覗く。四角いフレームの中で、真剣な顔つきの新郎が男に向かって駆け出している。
酔っ払い男の泣きそうな横顔を目視できる距離で捉え、俺は息を詰めた。
カメラを構え、脇を締め、手ブレを殺す。
絶対に撮り逃すな。
撮れ。
シャッターを幾度も切ったその瞬間、レンズ越しに捉えた新郎と酔っ払い男は、上質そうなジャケットがぐしゃぐしゃに歪むほど強く抱きしめあっていた。
*
全てのプログラムが終了した二次会会場の『トレモロ』からは人がゆるやかに消え、最後に手の空いたスタッフたちで新郎新婦を見送って、そのままお開きになった。
カメラバッグに一眼レフを片づけ、ともちゃんに軽くあいさつをしてから店の外に出る。
さっきまでのパーティーの熱気を封じ込めたような体は、春のひんやりとした夜には似つかわしくないほど汗をかいていた。
店先で立ったままジャケットを脱ぐ。続けてネクタイをゆるめていると、耳慣れた声が俺を労った。
「お疲れさま」
ミノリだった。歩道と車道を分け隔てる白い柵に、軽く体を預けて立っている。
さりげない立ち姿さえ絵になる男に、気持ちがどうしようもなく甘やかになる。惚れた弱みだ。
タイミングさえ合えば、以前からこうして撮影終わりに俺を迎えに来てくれることはあった。しかしさすがに今日は個展の初日だ。まさかの思いで胸がいっぱいになり、すぐには言葉が出てこない。
「撮影どうだった? うまくいった?」
ミノリが軽い足取りで近づいてくる。中途半端に首からぶら下がっていたネクタイを取り上げ、器用にくるくると巻いては俺のスラックスのポケットに突っ込む。
それからわずかに身を屈め、覗き込むようにして俺を見るなり、当たり前のようにほほ笑んでくれる。
「ハル?」
ぷちんと糸が切れるような音がした。
さっきまで耳の奥で響いていたパーティーチューンも、トレモロの輝かしい照明も、首に残る一眼レフの重さも、なにもかもが夢から醒めるように遠のいて、ミノリの一挙手一投足が体に染みていく。
ミノリの戸惑った顔が、瞬く間にずぶ濡れになった。
「どうしたの、ハル。なんで、泣くの」
またおまえはそうやって聞く。
釈然としない思いに目を細めた瞬間、ぼたぼたと涙があふれた。
泣きたくないし、ミノリを困らせたくない。でもどうしても止められない。抗えば抗うほど、勝手に出ていってしまう。
「……俺、またなんか、間違えちゃった?」
ミノリの心細げな響きに、違う、と首を振る。
現状を変えるために自分を過度に追い込んで、ひどく張り詰めていたのかもしれない。だから何気ないやさしさに触れただけで泣いてしまうのだ。
過去を振り返っても、ソファーベッドの上で泣いた記憶はない。ミノリと出会ってからは恥ずかしくなるほど泣いたのに。
そして涙をこぼした分だけ、ミノリの愛を体に取り込む余裕が生まれていく。
「……なあ。飾れよ」
涙を手で強引に拭う。顔を上げ、ミノリの目を間近で見つめる。
「俺の写真、個展で飾ってほしい」
ミノリがわずかにたじろいだ。
「あれだけ嫌がってたのに、どうしたの」
「いいだろ、別に」
「よくない。気を遣って言ってるなら、そんな気遣い、俺はいらない」
そうだった、ミノリは頑固だ。自分の気持ちを簡単には曲げない。曲げたくないはずなのに、俺が少しでも嫌だと言えばあっさり引いてしまう。
自分を押し通しきれない、なんとも臆病な愛し方をする。
だからこそあの個展のどうにもならない「空白」が、俺の心臓に深く刺さる。ミノリのどうしようもなく意地っ張りでいじらしい一面が、如実に現れている。
「気遣いじゃない。本気で言ってる」
「でも……」
「俺が嫌なんだよ」
言葉を濁すミノリの胸へ、駄々をこねるように額を押し付けた。軽く目を閉じただけで涙がまたあふれていく。
『トレモロ』で見た、ジャケットの皺が記憶に焼きついている。血管の筋が浮かぶほど力のこもった二人の手は、あのとき小さく震えていた。踏み込むことでしか見えない光景もある。
「いつまでも空白のままじゃ、嫌なんだ」
ミノリの中に俺がいたという証を残したい。誰からの目でも見える形で。
これはもう究極の独占欲だろう。
理由なんて、それだけだ。
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