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第六章 Spring fill in the blank 5-1

「私のほうが定年退職で宮永さんより先に辞めると思ってたのに」  水無瀬製作所で過ごす、いつもの昼下がり。コーヒータイムを楽しみながら、荻野さんはそう言った。  下校中の子どもたちの声が窓の外から聞こえてくる。そんな窓辺には春の日差しが注がれ、スーツ越しの肌を暖めてくれる。 「先越しちゃってすみません」  湿っぽい空気にならないよう、できるだけ明るい調子で言う。入社当時から使い続けたマグカップに入れたコーヒーの香りにくすぐられながら、荻野さんのいるデスクへと目を向けた。  ここに勤めて、四年。  毎日のように見かけていた子どもたちが少しずつ集団の中から減り、春になれば新しい顔ぶれが加わる。十人ほどしかいない製作所の人間は、四年の間で二人ほど辞めて、新しい人が三人増えた。 『トレモロ』での依頼が定期的に回ってくるようになり、副業のことを告げると二つ返事で許可が出た。  仕事さえきっちりこなせば、なにも言われない。そんな割り切った社風が好きだった。  俺は今日、水無瀬製作所を退職する。 「私ぐらいの年齢になると新しい挑戦が億劫になるから。宮永さんがうらやましい」  荻野さんが静かに立ち上がった。それからなにやら淡い水色の小さな手提げ袋を持って、俺のほうへ向かってくる。 「これ、私からの餞別です」 「そんな……わざわざありがとうございます」  明らかにどこかのパティスリーを連想させる、おしゃれなラッピング。昔、俺が『トレモロ』で撮影をした夫婦が営む店のものだと気づいて、舌に残るコーヒーの苦味が増した気がした。  アメリカに行く友人を持つあの彼女は、今も店に立っているんだろうか。 「ここの、おいしいですよね」 「あら宮永さん、知ってたの。娘が好きなのよ、ここのケーキ。さすがに生ものはあれだから、袋の中はクッキーだけど。オーナーさんといっしょに食べて」 「あの、荻野さん」  席に戻ろうとする荻野さんを呼び止める。荻野さんがゆっくりと振り返り、不思議そうな顔で俺を見た。  今日の今日まで、荻野さんとは深く踏み込んだ話をしなかった。自分のセクシャリティを明かしたことはないし、中途採用である俺の前職の話もしたことがない。荻野さんのことに至っては、娘夫婦と孫がいる事実しか知らず、そういえば彼女の夫の話は聞いた覚えがない。  互いに無関心ではなかった。でも楽に息継ぎができる、ちょうどいい距離を保ち続けた四年間だった。 「ぜひフォトスタジオにご家族でいらしてください。いい写真、残してみせますから」  荻野さんは俺の前で初めて砕けたように笑って、もちろん、とうなずいた。 *  いつものように定時の十八時にタイムカードを切ろうとして、最後にもう一度あいさつをしていたら少しだけ時間がオーバーした。  退社した流れでそのままフォトスタジオへと向かう。  電車に揺られながらミノリにメッセージを送ったがなかなか既読にならない。この時間ならスタジオにいるはずだが、この調子だとまた作業に没頭しすぎているんだろう。  オープンは来月。  そして、二人でフォトスタジオを立ち上げると決めてからここまでこぎつけるのに、約三年だ。  ミノリは俺よりひと足早く『スタジオlumina』を退職し、ここ一年ほどはフリーランスとして仕事を請け負っている。  決して順風満帆とは言い難かった。自分らしい撮影が許されない仕事の依頼を、ミノリは請け負わない。  それでもミノリへの依頼が右肩上がりでじわじわと増えつつあるのは、写真に滲む光と幸福の美しさを広めるきっかけにもなったSNSの効果なんだろう。  今季からは二十代女性をメインターゲットに据えた、新規立ち上げのアパレルブランドでメインフォトグラファーとして起用され、SNS人気の高さが理由のひとつとして挙げられていた。  ほかにもWEBマガジンで写真の連載を持ったり、ほのかが勤めているコスメブランドの物撮り写真を定期的に担当したり、そしてたまに笹川さんやオーナーに泣きつかれて『スタジオlumina』の仕事をスポットで手伝いながらも、生きていくには困らない程度の稼ぎにはなっている。  車内アナウンスが駅名を告げた。  ああ、ここで降りないと。ゆっくりと乗車口近くへ移動すると、付近に掲載された車内広告が目についた。  とあるジュエリーブランドの広告だ。素肌にジャケットを羽織り、くつろげた胸元に幾重ものパールネックレスを纏う若手の男性俳優は妖艶な色気を醸し出している。  少し前からここのブランドは、販促のディレクションを夜野さんが勤めているはずだ。  相変わらずあの人は写真がもたらす「美しさ」を突き詰めているらしい。  腹の奥が冷たくなり、逃げるように目を背けた。  しかし、電車を降りる直前もう一度だけ広告に視線を送り、俺はプラットホームをしっかりと踏みしめた。 * 「ミノリ、いるのか?」  テナントビル一階に設けたスタジオの窓から、光が漏れていた。看板も表札もまだ取り付けられていない、無機質なドアのカギも開いている。  雑然としたスタジオ内を進んでいくと、ハル、と弾んだ声がようやく返ってきた。 「おかえり。あと、お仕事お疲れさま」  Tシャツ一枚とデニムという、ミノリにしてはラフな出立ちで出迎えてくれた。手には滑り止め付きの作業グローブを身につけ、さらにはインパクトドライバーを握ったまま。ミノリが作業を中断してきただろうことがすぐにうかがい知れた。 「今日はなに作ってたんだ?」 「俺たちが仕事用で使うデスクが届いたから組み立ててた」 「一人だと大変だろ? 明日から俺も連日手伝えるんだから待ってくれたらよかったのに」 「気にしなくていいよ。俺たちのスタジオのためなんだから、これぐらい平気」  銀行から融資を受けたものの独立するための費用は潤沢にあるわけじゃなく、削れるところは削っていくスタンスだ。  しかし組み立て代ぐらいは正直ケチらなくてもよかったと思うが、案外ミノリはこういう作業が嫌じゃないらしい。  レンタル彼氏時代はある意味なんでも屋だったようで、力仕事が苦手な女性たちのために、引越し作業や組み立てを手伝うこともあったのだという。 「それで、ハルのほうは最終日どうだった?」  グローブを外し、手洗いから戻ってきたミノリが訊ねてくる。 「社長からブーケと、あとは荻野さんからクッキーもらった」  長く居たわけでもないのにな、と苦笑する俺を前にミノリの顔はなんだか複雑そうだ。 「どうした?」 「ブーケ、かぶったなあって」 「もしかして、おまえも?」 「そう。さすがにこのほこりっぽいスタジオに持ってくるのはあれだったから、俺たちの家に置いてきたけど」  結構迷ったのに。唇を尖らせる恋人がこれ以上拗ねてしまわないようによしよしと頭を撫でる。  それでもまだどこか不満そうにしているので、機嫌をとるために思いを吐露する。 「ミノリがくれるものならなんでもいい。ブーケだってうれしい」 「ハルは慎ましすぎる」 「……そうでもないけどな」  不意打ちを狙ってキスをする。もう一度、と唇を寄せようとしたら今度はミノリから仕掛けられ、侵入してきた舌に吸い寄せられていく。  この手でミノリに触れたい。キスもしたいしセックスもしたい。俺だけに与えられた権利を堪能できるのなら、物欲なんて二の次だった。 「ねえ、ハル。写真撮らない?」  水音を立て、ミノリが唇を離す。  いい雰囲気になると写真への衝動が時折顔を出してしまうのが、なんとも俺たちらしいと思う。

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