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番外編 同居初夜
夜は、静かすぎるほどだった。王都の喧騒が嘘のように遠く、灯りを落とした部屋には、真琴の呼吸の音だけがある。
同じ屋根の下、同じ部屋。それだけで、胸の奥が落ち着かない――同居は、あくまで護衛上の判断だった。
頭では、何度もそう言い聞かせている。だが、目を閉じて眠ろうとする真琴を横目に見るたび、理性は簡単に揺らいだ。
「……リオン、まだ起きてる?」
布団の中から、遠慮がちな声が聞こえた。
「起きている」
「……即答だね」
くすっと笑う気配。その小さな音だけで、胸がぎゅっと締めつけられる。
起きているに決まっている。眠れるわけがない。彼がすぐ手の届く場所にいるという事実だけで、神経は張り詰めたままだ。
「眠れない?」
「……いや」
「絶対うそ」
真琴は体を少し起こして、こちらを見た。薄暗い中でも分かる。心配そうな目。
「護衛だから……緊張してる?」
違う、と言いかけて、言葉を飲み込む。護衛だから、ではない。護衛“なのに”。
「……少し、考え事をしている」
「考え事?」
ためらいが一瞬、喉を詰まらせた。だが、言わなければならない。今夜、話しておくべきことだ。
「近いうちに、任務が入る」
真琴の瞬きが、ぴたりと止まる。
「……任務?」
「ああ。数日ほど……王都を離れる」
胸の奥が鈍く痛む。自分で決めた任務だ。国のため、騎士として当然の仕事。それでも――。
「そっか……」
真琴は、すぐに笑った。気を遣うような、やわらかい笑顔。
「お仕事だもんね。仕方ないよ」
その言葉が、何より苦しかった。
仕方ない。当然。理解している――それが分かっているからこそ、言葉を選ばずにはいられない。
「……離れるのが、不安だ」
真琴の目が、少しだけ見開かれた。
「リオンが?」
「ああ」
情けないほど、正直な声だった。
「君を……私の視界から外すのが、すごく怖い」
私の弱音を晒す言葉で、真琴に呆れられて、叱責されても仕方がないと思った。
重すぎる。騎士として、恋人として――。
でも真琴は怒らなかった。布団の中から、そっと手を伸ばしてくる。
「……重いね」
小さな声に、胸がずしりと沈む。
「すまない」
謝罪は、反射だった。けれど――。
「リオン、僕はね」
指先が、私の手に触れた。
「嫌じゃないよ」
その一言で、何かが壊れた。離れていた距離を詰めるように、思わず体を寄せてしまう。
抱きしめるつもりはなかった。だが、気づけば腕が動いていた。
「……真琴」
逃がさないように、しかし強くしすぎないように。矛盾だらけの抱擁に、真琴は驚いたように息を吸い、けれど抵抗しなかった。
「リオン……」
「すまない……重いのは、自覚している」
「うん」
「それでも……」
言葉が詰まる。任務中、何度も思うだろう。無事か。泣いていないか。誰かに触れられていないか。そんなの全部、制御不能だ。
「帰ってきたら……ちゃんと、ここに戻る」
それだけは、約束する。
真琴は私の胸に額を預けて、静かに頷いた。
「うん、待ってるね」
その短い返事が、どれほどの力を持っているか。彼は、たぶん知らない――いや、知らなくていい。
守る側が知っていれば、それでいい。
夜は、まだ深い。私は眠らないまま、真琴の体温を確かめ続けていた。数日後に訪れる“離別”を思いながら。
王都を出る朝は、いつもより静かだった。鎧を身につけながら、無意識に視線が部屋の奥へ向く。
まだ眠っている真琴の気配が、扉一枚隔てた向こうにある――起こすべきではない。分かっている。だが顔を見ずに出るなど、できるはずがなかった。
音を立てぬよう部屋に入ると、真琴は布団の中で丸くなっていた。寝息は穏やかで、まるでこの数日間、離れることなど何も心配していないようだ。
その無防備さが、さらに胸を締めつける。
「……真琴」
小さく名を呼ぶ。すると、まるで待っていたかのように、まぶたが動いた。
「……リオン?」
寝ぼけた声。それだけで、行きたくなくなる。
「起こしてしまったか」
「ううん……どうせ、行く時間でしょ」
真琴は上半身を起こし、少しだけ笑った。
(――ああ、送り出す側の顔だ)
「無理しないでね」
それは騎士にとって一番簡単で、一番重い言葉だった。
「……無理はする。早く帰るために」
「もう」
軽く眉を寄せながらも、真琴は否定しない。
彼は分かっている。私が“無理をする存在”だということを。だからこそ――。
「必ず戻る」
言葉に力が入る。
「約束だからね」
「ああ。約束だ」
それでも足りない気がして、さらに続けてしまう。
「その間……できるだけ外出は控えろ」
「えっ」
「知らない者に声をかけられたら、笑うな」
「えっ」
「手を掴まれても、立ち止まるな」
「えっ、リオン」
「菓子を褒められても、ついて行くな」
「全部一気に言わないで!」
真琴は完全に目が覚めたようだった。
「それ、ほぼ“生活するな”って言ってない?」
「……できれば」
「できないよ!」
はっきり否定されて、胸がざわつく。
「……冗談だ」
「今の間、どこが冗談なの?」
真琴はため息をつき、それから少し困ったように笑った。
「大丈夫だよ。リオンが不在の間、団長もいるし騎士団のみんなもいる」
それが、さらに不安を煽る。“みんな”の中に、真琴を慕っている男が、何人いるかわかっていない。
「真琴……毎日、手紙を書く」
「え?」
「読む暇がなくてもいい。返事がなくてもいい」
「それ、寂しくならない?」
「寂しい」
即答だった。
「だが、書く」
真琴は一瞬黙り、それからゆっくり頷いた。
「じゃあ……僕も書く」
胸が、じんと熱くなる。
「……必ずだな」
「うん。約束」
約束が、また増えた。
出発の時間が迫る。これ以上ここにいれば、本当に行けなくなる。それでも私は、真琴を引き寄せた。
「……少しだけ」
許可を取るような声を出しながら、ぎゅっと抱きしめる。真琴は何も言わず、腕の中に収まった。
「……離れるの、嫌?」
耳元で囁くような問いに、迷うことなく答える。
「嫌だ」
「……重いね」
昨日と同じ言葉。だが今度は、少し笑いを含んでいた。
「それでも……行ってくれる?」
「ああ」
離れるために、抱きしめている。矛盾しているが、それしかできない。
「リオン、帰ってきたら……」
真琴が言いかける。
「帰ってきたら?」
「……また、こうしていい?」
胸が、きゅっと締まる。
「それ以上だ」
「えっ」
「もっと、離れなくなる」
真琴は一瞬固まり、それから耳まで赤くなった。
「……それ、脅し?」
「宣言だ」
その言葉が引き金になったように、抑えていた情熱が一気に爆発した。離別の不安と渇望が混じり、胸を焦がす。
私は荒々しく彼の顎を掴み上げ、唇を激しく奪った。優しさなど吹き飛ばし、貪るように舌を絡め、息すら許さない深いキスをした。それだけで真琴の体が震え、甘い吐息が漏れるのを感じて興奮が頂点に達する。
「ンンっ、リオン……」
唇を離すと糸を引く唾液が繋がり、互いの熱い息が混じり合う。
「……真琴、愛してる」
時間になり、名残惜しさを引き剥がすように体を離した。
「行ってくる」
「……行ってらっしゃい」
扉を閉める直前、最後に見えたのは――少し寂しそうで、それでも信じて待つ顔だった。
だからこそ、思う。
――必ず生きて帰る。真琴のところへ。
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