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番外編 王国史に残る転換点
アルセリア王国と敵国の国境付近には、定期的な情報交換(という名の牽制)がある。
その席に、問題が起きた。
「……副団長殿、最近お忙しそうですね」
敵国の使節が、半ば世辞のように言った。それに対して我が騎士団のある団員が、うっかり口を滑らせた。
「そりゃあもう! だけど最近は、お帰りが早いんですよ」
――静止、間に合わず。
「副団長の恋人が、まだこの国に慣れていなくて!」
「不安にさせると、副団長の戦果が跳ね上がるんです!」
……。
……。
敵国使節、無言で筆を取る。
こうして極秘扱いのはずだった副団長の事情は、正式な軍事情報になった。
敵国・緊急対策会議(※実話)
砦の奥、重苦しい会議室。
「では議題に入る」
老将が咳払いをする。
「アルセリア王国騎士団副団長・リオンへの対策だ」
若い将校が真顔で手を挙げた。
「戦力評価は?」
「単騎殲滅可能」
「正面衝突は?」
「却下」
「夜襲は?」
「却下」
「奇襲は?」
「却下」
全却下。そこで、情報参謀が資料を差し出した。
「こちらをご覧ください」
紙面上部に、大きく書かれている。
《副団長 行動変化要因》
その下。
恋人が不安そう → 危険度:最大
恋人が体調不良 → 危険度:災害級
恋人が泣いた → 想定被害:国家存亡
会議室、凍る。
「……では、逆に」
参謀が続けた。
「副団長殿を戦場に呼び寄せない方法は?」
沈黙の後、誰かが呟いた。
「……恋人が、平穏であれば……」
老将、即断。
「よし」
敵国の結論
副団長の恋人に
・不安を与えない
・危険を感じさせない
・近づかせない 以上を厳守せよ。
そう、非公式文書に残した。
***
――去年の国境紛争。記録上は、
「敵国前線砦、指揮系統の混乱により無血開城」
そう書かれている。
だが私は、その朝のことを今でもはっきり覚えている。出立前、いつものように装備を整えていると――。
「……リオン」
背後から少し控えめな声。振り返ると真琴が立っていた。細い指先が、私の外套の端をきゅっと掴んでいる。
「どうした?」
「えっと……その……」
言い淀んで視線が泳ぐ。……ああ、嫌な予感しかしない。
「私がいない間、不安か?」
そう問うと、真琴は一瞬だけ目を伏せて――。
「……昨日、敵国の砦の位置、地図で見たら……思ってたより近くて……」
らしくないくらいに、小さな声だった。
「確かに、アルセリア王国の国境付近になる」
「僕が生まれ育った日本という国は、こんなふうに戦争をしていなかった。だから不安になる……」
外套を掴む真琴の手に、力が込められたのが分かった。
「リオン、無茶しないよね?」
――それだけ。たったそれだけ、だった。
私はその瞬間、理解した。これは戦の話ではない。真琴は敵国を怖がっているわけでも、私の力量を疑っているわけでもない。ただ「帰ってこない可能性」をほんの一瞬、想像したのだろう。それだけで、私の中の理性が職務放棄した。
「心配をかけて、すまない」
言いながら、私は真琴の手を両手で包んだ。
「今日中に、片を付ける」
「え?」
「夕刻には戻る」
「え??」
真琴が目を見開く。
「ま、待って、無理は――」
「無理ではない」
断言した。なぜなら、早く帰らねばならない理由ができたからだ。
***
砦が見えたのは、夜明け前だった。霧が低く垂れこめ、松明の火が壁の上で揺れている。
国境砦。敵国の補給と指揮の要。本来なら小隊、いや中隊規模で当たる場所。だが、今日は私ひとりで十分だった。
理由は単純だ――昨夜、真琴が少しだけ言葉を詰まらせた。
「……国境の方、最近、物騒なんでしょう?」
声も表情も、いつも通り穏やかだった。けれど、私は見逃さなかった。異国の空気に慣れていない彼が、地図の端に引かれた“国境線”を見て、一瞬だけ不安そうに視線を落としたことを。
胸の奥が、静かに冷えた。
(ああ、なるほど――)
ならば、することは決まっている――不安の原因を全て消す。
(私が副団長ではなく、新兵だったなら――砦に|爆裂《エクスプロージョン》か|業火《ヘルフレイム》を叩き込んで、すべて終わらせていただろう。国境線が多少ずれるが、その程度は誤差だ……もっとも、それを許さない人物がいるし、立場上そうもいかない)
そんなことを考えながら砦の外周を回り、死角から壁に取りつく。魔力を抑えつつ音を殺し、影の中を進む。
見張りの一人が目の前を通過後、静かに背後に近づき、首の後ろに手刀を入れる。倒れる前に受け止め、地面に寝かせる。
通路に見張りが二人いたが、呼吸を合わせる間も与えず、あえて剣は抜かない。血の匂いは、余計な騒ぎを呼ぶ。私が内部に深く侵入した時点で、敵の動きは乱れ始めていた。指揮官の部屋へ向かう途中、兵が叫ぶ。
「侵入者だ――!」
遅い――床を蹴り、瞬時に距離を詰める。一撃。二撃。三撃。魔力を解放するのは、最後でいい。
指揮官の扉を蹴破った瞬間、ようやく私は剣を抜いた。
「貴様……一人で?」
「ええ」
淡々と答えながら、剣を構える。
「私ひとりで十分でしょう」
体内の魔力が迸り、室内の空気が震える。机も、地図も、壁の装飾も吹き飛んだ。剣を収める頃には、砦は完全に沈黙していた。
屋上に立ち、東の空が白むのを見ながら私は一息つく。
これで、この砦を起点にした衝突は終わる。周辺の小競り合いも、連鎖的に止まるだろう。
おかげで国境は、しばらく静かになる。
(……これでいい)
真琴は、もう地図を見て不安になる必要はない。騎士団に提出する報告書には、こう書けばいい。
「戦略的判断により、単独行動」
余計な理由は不要。
私は踵を返し、来た道を戻る。彼に伝える言葉は、ひとつだけでいい。
「もう大丈夫だ。しばらく静かになる」
それだけで、十分だ。
――まさかそれが後に「王国史に残る転換点」と呼ばれるなど、この時の私は知る由もなかった。
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