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番外編 砦制圧後のそれぞれ
***
店の扉を開けた瞬間、いい香りがした。乾燥させた茶葉と、少し甘い焼き菓子の匂い。
――真琴の店の、いつもの空気だ。
私は外套を外し、剣を預ける。
「おかえりなさい」
カウンターの向こうから、真琴が顔を上げた。その表情が、私を見てふっと緩む。
胸の奥が、微かに熱を帯びた。
「リオン……早かったね」
「ああ、予定よりは」
嘘は言っていない。単騎で砦を落とした、とは言っていないだけだ。
真琴は私の手元を見て、少し首を傾げる。
「……怪我、してない?」
「大丈夫だ」
即答すると、彼はほっと息をついた。その仕草だけで、ほかの砦をもう一つ落としてもいい気分になる自分がいる。
(……自重しろ)
私は椅子に腰を下ろす。
「国境の方は……どうだった?」
彼の声は、できるだけ平静を装っている。けれど、指先がわずかにエプロンの端を掴んでいるのが見えた。
私は、少しだけ間を置いてから答えた。
「しばらく、静かになる」
「……本当?」
「ああ」
それだけで、真琴の肩から力が抜けた。
「よかった……」
小さくそう言って、彼は笑う。その笑顔が、何よりの戦果だった。
カウンター越しに、湯気の立つ茶を差し出される。
「今日、チョコに合う新しいブレンドを試してみたんだ。どうぞ」
「……いただきます」
一口含むと、柔らかな甘みが広がった。
「……美味しい」
そう言うと、真琴は少し照れたように目を伏せる。
「それなら、よかった」
沈黙が落ちる。気まずさはない。むしろ、心地いい。
不意に、真琴が言った。
「リオン……昨日、変なこと言ってなかった?」
「変なこと?」
「その……国境が不安だとか」
私はカップを置き、真琴に向かってにっこり微笑む。
「だから、不安は解消した」
真琴は少し驚いたように、目を瞬かせる。
「……そうなんだ」
「ああ」
私は静かに続ける。
「君が安心して過ごせるなら、それでいい」
真琴の耳が、ゆっくり赤くなっていく。
「……リオン、時々……そういうことを、さらっと言うよね」
「たまには、いいかと思ったんだ」
そう答えながら、私は内心で思う。
(――まだ、気持ちの半分も言っていない)
帰り際、彼が戸口まで見送りに来た。
「今日は……来てくれてありがとう」
「こちらこそ」
一歩、距離を詰める。けれど触れない。まだ、付き合いたてだ。それでも――。
「リオン、無理はしないで」
その言葉に、私は一瞬だけ微笑んだ。
「努力する」
扉を閉めた後も背中に残る彼の気配が、しばらく消えなかった。
――あの砦よりもこの距離の方が、ずっと慎重になる。
***
最初に異変に気づいたのは、参謀補佐だった。机に積まれた戦況報告書を一枚ずつ確認している途中で、ふと手が止まる。
「ちょっ……待て待て待て!」
彼は、もう一度その紙を読み返した。
制圧砦:北東第四砦
制圧戦力:副団長リオン・ヴァルハート(単騎)
所要時間:夜明け前〜正午
被害:なし
「副団長の……単騎?」
呟いた声が掠れた。参謀補佐の慌てふためく様子に、周囲の団員たちが顔を上げる。
「今、なんて?」
「“単騎”って言ったか?」
「いやいや、書き間違いだろ」
しかし次のページをめくって、全員が黙った。
周辺の小競り合い。
補給線。
逃走した敵部隊――すべて、副団長ひとりで“処理済み”。
「……」
誰かが、唾を飲み込む音だけが響いた。
「……あれ?」
「副団長、昨日って……」
「確か、任務終わり次第、帰還って……」
別の団員が、恐るおそる言う。
「帰還してから……店に行くって言ってませんでした?」
その瞬間、空気が凍った。
「……は?」
「……あの、例の店?」
「副団長が、最近……」
丸くなったと噂の副団長。過保護が別方向に全力だと、気づかれていない副団長。
参謀補佐は、震える手で額を押さえた。
「……つまり、こういうことか」
ゆっくり、言葉を選ぶ。
「“帰りを急いだ結果”、単騎で国境一帯を平定した、と」
あまりの出来事に、その場が沈黙する。
「おいおい……ダメだろそれ、力技がすぎる……」
「理由が私的すぎる……」
「そんな理由、敵国に知られたら終わる……」
その時、扉が開き、団長が顔を覗かせる。
「どうした。会議が静かすぎる」
全員が、そろりと視線を向ける。参謀補佐が死を覚悟した顔で、一枚の紙を差し出した。
「……団長、こちらをご確認ください」
団長はそれを受け取り、ざっと目を通し――次の瞬間。
「………………」
深く、深く、息を吸い。
「……頭が痛い」
椅子に腰を下ろし、両手で顔を覆った。
「単騎で砦を落とすな。戦闘理由が“恋人を安心させるため”とは、いったい何事だ」
団員のひとりが、ぽつり。
「……副団長、優しくなったって噂……」
団長は、低く唸った。
「優しくなったんじゃない。守る対象が明確になっただけだ」
全員、青ざめる。
「……つまり」
「今後、副団長の私生活が戦況に直結する流れに……?」
「そうだ」
団長は遠い目をした。
「……だからこそ、誰にも近づけるな」
「敵国に知られたら、戦略どころの話じゃない。恋人が不安に苛まれるたびに、リオンは単騎で殲滅しに行く」
沈黙の後。
「……あの」
「もし、副団長が“不安”を感じさせられたら……?」
団長は、ゆっくりと顔を上げた。
「……国が、終わる」
全員が、一斉に立ち上がった。
「守ります!!」
「副団長の平穏!!」
「全力で!!」
団長は頭を抱えながら、呻いた。
「……私は部下の恋愛事情で、王国を守る羽目になるとは思わなかった……」
ちなみにこれは、昨年の話である。1年後がどうなったか、乞うご期待!
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