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副団長戦闘不能事件

「……副団長が、戦闘不能?」  軍務局の会議室が静まり返った。報告書を持っているのは若い書記官。対面に座るのは騎士団長・ラディス。 「戦闘中ではありません。非番の日、菓子工房にて」 「……は?」  団長の声が低くなる。書記官が恐るおそる続けた。 「菓子職人・清水真琴殿が、飴細工用の小刀で指を切った際……副団長がそれを見て顔面蒼白、膝をつき、そのまま――」 「――崩れ落ちた、と?」 「はい」  会議室が、しん……と静まる。 ――その日の工房 「……あ」  真琴の指先が、すっと切れた。飴細工用の刃は鋭い。ほんの小さな傷だが、赤い雫がじわりと滲む。 「大丈夫、大丈夫。浅いし」  僕は止血するための布を探そうとしていると――。 「真琴」  低く呼ぶ声に振り返ると、リオンが立っていた。今日は非番で、制服ではなく私服。それでも姿勢は騎士のまま。 「怪我か」 「うん、ちょっとだけ。ほら、たいしたこと――」  僕が笑おうとした瞬間、彼の視線が僕の指先の赤に固定された。そこで彼の動きが止まる。完全に――呼吸も、瞬きもしない。 「……リオン?」  切れた指先を見せたまま、一歩だけ近づいたら。 「……やめろ」  リオンの声が震えている。 「止血しろ。今すぐ。今!」 「え、うん、だから布を――」  彼は青ざめた顔で、思いっきり膝をついた。 「……は?」  そのまま床に手をつき、額に汗を浮かべる。その顔は蒼白、きっと戦場でも見たことのない顔色だと思う。 「……リオン?」  僕は目の前に慌ててしゃがみ込む。 「真琴……血が」 「え、これ? これ?」  ほんの指先だよ? と見せた瞬間、両手で顔を覆い隠す。 「見せるな!!」  叫びに近い声。そして本当に、ぐらりと体が傾いた。 「ちょ、ちょっと待って!  リオン?」  副団長、戦闘不能。原因:恋人の小さな切り傷。  ――後日・軍務局会議 「副団長は戦場で致命傷を負っても、その場に立ち続けた男だぞ」  事実を告げた団長が腕を組む。 「それが、指先の怪我で崩れる?」 「……伴侶だからでは」  誰かがぽつりと呟いた。団長の眉がぴくりと動く。 「本人の弁明は?」  書記官が紙をめくる。 「『敵の血と真琴の血は別だ』とのことです」  会議室、沈黙。 「『敵は殺意を向けてくる。真琴は向けない』」 「『守る対象の損傷は想定外だ』」 「『想定外は弱点だ』」  報告を聞いていた団長は、深く息を吐く。 「……それで、本人はどうするつもりだ」 「再訓練を申し出ております」 「何の?」  書記官が咳払いする。 「“伴侶の怪我耐性強化訓練”を」  その言葉に、会議室は崩壊寸前になった。 ――そして騎士団訓練場。 「副団長、本気ですか」  若い騎士が引き気味に聞く。リオンは真顔だった。 「戦場で動けなくなるより、今克服する」  机の上には――布に描かれた赤いインク。模擬的な“血”。 「……これを見続けるだけ?」 「そうだ」  彼は腕を組み、視線を落とす。顔色はまだ悪いがでも逸らさない。 「守ると決めた以上、弱点は減らす」  その横顔は、戦場と同じだった。ただし敵は“赤い染み”。  ――夜・工房 「聞いたよ」  僕は笑いながら言う。 「僕のために訓練してるんだって?」  リオンが少しだけ視線を逸らす。 「……あれは失態だ」 「僕は嬉しかったけど」 「嬉しい?」 「うん」  僕は彼の手を取る。 「僕の血で倒れるリオンなんて、ちょっとかわいかった」 「かわいいと言うな」  リオンの指先をぎゅっと強く握り返す。 「でもね」  僕はそっと言う。 「僕は戦場には出ない。だから大丈夫。それに目を逸らしながらも、回復魔法で治してくれたでしょ」 「……分かっている」 「それでも?」 「それでもだ」  彼の声は低く、やけに真剣だった。 「守れない可能性があるなら、減らす」 「……」 「君が無事でいる確率を、少しでも上げる」  その言葉に、胸が温かくなる。僕はちょっとだけ背伸びをして、彼の額に触れた。 「じゃあさ」 「なんだ」 「今度は、僕がリオンの弱点を知りたいな」 「……弱点などない」 「さっき言ってたのに」  突っ込んだ途端に沈黙するリオン。そして小さく呟く。 「……君だ」  その瞬間、今度は僕が赤くなる番だった。 ***  騎士団医務室。 「……副団長。準備はよろしいですか」  医官が、必要以上に厳粛な顔で告げる。副団長は、深く息を吸った。 「……ああ。問題ない」  その声は低く、揺るぎない。かつて“菓子職人の傷跡を見て青ざめ、膝から崩れ落ちた男”と同一人物とは思えない。  室内には団長ラディスもいる。腕を組み、興味深そうに見守っていた。 「三度目の正直だな、リオン」 「今回は成功させます」  静かな決意。そして――扉が開く。 「おはようございます。今日は呼ばれただけなんだけど……何?」  真琴が入ってくる。白いシャツにエプロン姿。戦場とは無縁の菓子職人。 「真琴殿、少しだけ失礼します」  医官が丁寧に言い、真琴の袖をまくる。そこにあるのは、日本にいた時にやけどをした傷跡だった。  以前は――それを見た瞬間。 「リオン? リオン大丈夫?」  ――という事態になった。だが今日は違う。リオンは見ている。  青ざめないし呼吸も乱れない。拳も震えない。  真琴が、そっとリオンを見つめる。 「……無理しなくていいよ?」 「無理ではない」  穏やかな声で返答する。 「それは、君が生きている証だ」  医務室が一瞬、静まる。 「……私は、それから目を逸らす騎士ではない」  団長が、にやりと笑う。 「ほう」  真琴は目を丸くしてから、ふっと笑った。 「強くなったね、リオン」  その一言だけで、副団長の耳が赤くなる。 「……訓練の成果だ」  医官が慌てて記録に書き込む。 《副団長耐性訓練・成功。青ざめなし。意識明瞭。戦闘不能化せず》  団長が手を叩く。 「よし、合格だ。これで“副団長精神安定管理ガイドライン”の改訂ができるな」 「待ってください団長、その名称は本当に必要ですか」 「必要だ。歴史的瞬間だからな」  真琴はきょとんとする。 「え、僕そんなに大事?」  リオンが即答する。 「大事だ」  間髪入れず、医官と団長が同時に咳払いをした。真琴は少し照れながら、袖を戻す。 「じゃあ、ご褒美に新作の焼き菓子持ってくるよ。耐性訓練成功祝い」 「……それは」  一瞬だけ、リオンの理性が揺れる。団長が肩を叩く。 「今度は“甘味耐性訓練”だな」 「団長」  だがもう、リオンは倒れない。傷を見ても。甘い笑顔を向けられても。真琴の隣に立つ騎士として、胸を張っていられる。 「ねぇ、僕の傷が怖くなくなったの?」  リオンは首を振る。 「怖い」  真琴が少し驚く。 「だが――」  その手を、そっと握る。 「それでも、触れられる」  甘い沈黙。医務室の空気が微妙に気まずくなる。団長がぼそりと。 「……戦闘不能になるのは、むしろ我々だな」  医官、深く頷く。  こうして副団長リオン・ヴァルハートの耐性訓練は正式に完了した。だが――騎士団内での新たな課題は明確である。 《副団長、伴侶の甘い囁きに対する耐性は未検証》

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