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三日目・アロ「確信」
ジクに月の王子のことを話しながら、ずっと考えていた。俺はどんなつもりで、この話を彼に聞かせているのだろうと。
まだ心のどこかで、ジクが「自分こそが月の王子であった」と思いだしてくれるはず、と希望を捨てられずにいるのかもしれない。
そんなことはあり得ないと分かっているのに。二人だけの秘密だった愛称の話まで持ち出してしまうとは、滑稽だ。
彼の記憶が戻らない以上、ジクが月の王子だったとしても、その確証はどこにも存在しない。
それに俺は旅立ちを控えている。
だからこそ、この国にいる残り少ない日々を、月の王子ではなく、癒し処のジクとしての彼に甘え、頼り、癒してもらおうと昨日夕陽を見た後、決意したくせに……。
館に戻ると、もう日が暮れ始めていた。
部屋の中に入らず、そのまま二人並んで、湖の畔の簡素なベンチに腰を下ろす。
辺りはオレンジ色に染まり始め、俺たちは会話もなくただただ湖を見つめる。この夕暮れ時の湖の色は、砂だらけの国に行っても、きっと忘れないだろう。
ガサッ。
背後で何かの気配がし、俺より早くジクが反応し振り向く。一瞬、彼から殺気を感じたが、すぐに穏やかなジクへ戻った。
「なんだ、リムだったのか」
ジクの視線の先に、驚くべき生き物がいた。
「リム、客人がいるときに顔を見せるなんて、めずらしいね。あぁ、昨日も今朝も、私が起きるのが遅くて会えなかったから夕方に来てくれたのかい。ありがとう。今、ブラッシングしてあげよう」
ジクはベンチから立ち上がったが、俺はその生き物から目が離せない。
「アロ、驚かせてしまいましたね。一角獣のリムです。森の奥に住んでいて、湖に水を飲みに来るついでに、いつも私のところへ寄っていってくれるのですよ」
俺は何の返事もできない。
「そうでした。街の人は、一角獣が現れると凶報だとして、外出を取りやめたり、予定を変更するのだと聞きました。でも、そんなのただの迷信ですよ。リムはとてもいい子で、凶報などもたらしません」
俺は一角獣から目が離せないままだが、一角獣も俺を見つめている。
ゆっくりとベンチから立ち上がった俺は、一角獣に向かって大きく手を広げた。
「アロ」
俺は一角獣に向かって小さくそう呼ぶ。一角獣の耳がピクピクと動く。
もう一度。もっと大きな声で「アロ!」と呼んだ。
一角獣は俺を目掛けて駆けてきてくれた。そして角を肩になすりつけてくる。
「アロ!オマエ、生きてたんだな。よかった、よかった」
頭、たてがみ、背中、全部を撫でてやる。
「よしよし、会えてよかった、元気そうでよかった」
十年ぶりに再会できた一角獣は、以前より角が長く立派になっていた。
「あの、どういうことでしょう?リムは、人に懐かず、私以外には決して身体を触らせないのに……」
ジクが不思議そうな顔をして、俺と一角獣を代わる代わる見ている。
「ブラッシング、俺がしてやってもいいか?」
「えぇ、それはもちろん。でも、色々と不思議で。リムのことをアロと呼んだのは、どうしてなのか説明してもらえますか?」
俺はジクからブラシを受け取り、一角獣が喜ぶ首の付け根からブラシをかけていく。
「角のここに、剣で切られたような古傷があるだろ」
「えぇ。傷としては治っていますけれど、痕が残っているのを知っています」
「この一角獣、月の王子が世話していた子なんだ。城でもさ、一角獣の出現は凶報をもたらすと言われていて、ある日この子が姿を現したとき、門番が酷い仕打ちをして。それを止めたのが月の王子だった」
「そうだったのですね」
ジクは一角獣に同情するように、古傷をやさしく撫でてやる。
「月の王子は、こっそりと城の裏にある森へ、一角獣を放した。それからはさ、忠誠を誓ったかのように、王子が森へ行くたびに一角獣は姿を現すようになった。王子は、ブラッシングしたり果実をあげたりして可愛がっていたよ」
一角獣は俺の言葉が分かるかのように、ウンウンと首を動かす。
いつの間にか太陽は、半分が湖の向こうに沈んでいた。
「俺もアロと友達になりたくて果物を持っていったり、話しかけたりしたけど、触らせてもらえるようになるまで、三年はかかったな」
一角獣は日が沈む前に森へ帰りたいのだろう。
ブラッシング中にもかかわらず、湖に向かって歩き始める。オレンジ色に染まった水面に口をつけ水を飲み、また俺たちのところへ戻ってきた。
挨拶するように俺に角をこすりつけ、ジクにも同じことをした。
そして俺たちのことを見つめたあと、ゆっくり森へと帰っていった。
程なくして太陽は全て姿を隠しきり、辺りは暗くなった。
話は途中だったが、俺たちは室内へと移動する。
ジクはキッチンに立ち、昼にも食べた豆の煮込み料理を温め直す。俺はダイニングテーブルに皿を並べる手伝いをした。
支度ができ、豆料理とパンを食べながら、また俺が続きを喋り始める。
「月の王子は、一角獣に「アロ」って名前をつけた。俺がこの癒し処に来た日、ジクが何て名前で呼ばれたいかって聞いてくれただろ?あのとき、一角獣のことを思い出し「アロ」って答えたんだ」
「リムの名前、本当はアロだったのですね……」
「リムって名付けたのはジク?」
「えぇ、私です」
それきり俺の話は弾まなくなった。ジクは色々と話しかけてくれたが、答えがおざなりになってしまう。
俺の頭の中は、一角獣に会えた興奮が収まり、今は酷く混乱している。
だから食事が終わってすぐジクに伝えた。
「ごめん。今日は疲れたみたいだ。俺、もう寝るよ。おやすみ」
一人で階段を上がって客室へと向かう。ダイニングテーブルに座ったジクが心配そうに俺の後ろ姿を見上げていたけれど、彼を気遣うことはできなかった。
少しも眠く無いのにベッドに横たわり天井を見上げる。
答えは出たのだ。
ジクは月の王子だった。もう決まりだ。
月の王子が姿を消したあと、一角獣も姿を消した。そして十年後、月の王子ではないかと疑う男の傍に、忠誠を誓った一角獣が居たのだ。
しかもその男は、昔の記憶が無いという。
これ以上の証明はない……。
ではなぜ、俺は今、うれしくないのだろう。
「ウー」と愛称を呼んで、ジクに抱きつけばいいのに。
抱きついたところでジクが俺を思い出さないと分かっているから、辛いのか。
やっと探し求めていた人に会えたのに、もうすぐ別れなければならないことが、辛いのか。
「あーもー」
頭を抱えてベッドの上で丸くなる。
今、どう動くことが最善なのか分からない。
これが騎士の訓練だったら、敵の位置、味方の配置を見て、瞬時に身体を動かせるのに。采配を間違うことは決してないのに。
頭を整理しようと、窓を開けてバルコニーに出た。湖から少し冷たい風が吹いてきて、俺の頬を撫でてゆく。
とにかく、月の王子は生きていたのだ。一角獣も生きていた。共に元気に暮らしている。
まずそれを、よかったと思うべきだ。
所在が分かったことを喜ぶべきだ。
この十年間、眠ろうと目を瞑ると、王子が酷い環境に置かれているのでないか、一角獣がまた誰かに剣を向けられているのではないか、と悪い想像が頭をよぎり苦しんだ。
ようやく眠れた夢の中に、打ちひしがれる王子や、森で倒れる一角獣の姿が出てきて、涙したこともある。
月の王子と一角獣は共にあった。一角獣は忠誠心を捨てておらず、傍で彼を見守っていた。
けれど……。
そこに俺は居なかった。十年の間、消息を知ることも叶わなかった。こうしてまた巡り会えたけれど、あと三回眠ったらまた離れなければならない。
この癒し処を去るとき、どんな気分になるだろう。
肖像画もないジクの顔を、この先何年も何十年も、覚えていられるだろうか。きっと記憶はどんどん滲んでいってしまう。
さっきから同じようなことを、ぐるぐるグルグルと、考え続けていた。
—
夜が深まってもベッドの上で寝返りを繰り返し続けていると、小さくノックする音が聴こえた。
慌てて布団をかぶり、眠ったフリをする。布団の暗闇の中にいても、ゆっくりと扉が開けられたのが分かった。
コトリ。ベッド脇の小さなテーブルに何かが置かれたようだ。
「アロ。ホットミルクです。たっぷり蜂蜜も入れました。よかったら温かいうちに召し上がれ」
俺が眠れていないとバレバレなのだろう。それでも俺は布団から顔を出さない。
ベッドが軋み、足元の辺りにジクが腰掛けたのが分かった。そのまま彼が部屋から出て行く気配はなく、時は過ぎていく。部屋は静寂に満ちていた。
ジクが傍に居てくれるというだけで、混乱していた俺の心は少しずつ凪いでいく。今夜を含めてもあと三回しか泊まれない夜を、棒に振ろうとしている自分の馬鹿さに気が付くことができるくらいに。
そろりと、布団から右手だけを出してみた。
ジクが座っているだろう足元のほうに、その手を伸ばす。
彷徨う俺の右手を、温かい両手が受け止め握り返してくれた。さすが癒し処の主人だ。してほしいことを分かっている。
今度はそろりそろりと、布団から目まで出してみる。
やさしい眼差しで俺を見てくれているジクと、目があった。
「あのさ」
「どうしましたか」
「ジクはさ、昔の記憶が無いって言ったよね。思い出したいと思わない?」
「思い出すというのは、どこかに仕舞われていたものを引き出すような感覚でしょうか。私の中には、ある時点より前の記憶は、仕舞われてすら無いのです。だから思い出すことはできない」
彼の中でそれはハッキリとしているようだ。
「そっか。じゃ、もし俺が「ジクは本当は月の王子なんじゃないか?」って言い出したら困る?」
「私が?まさか。ありえないでしょう」
ジクは笑って否定してきた。
しばらく沈黙が生まれたが、めげずに話を進める。
「……俺に、癒し処ではたくさん我が儘を言えっていったよね」
「えぇ、お伝えしました」
「あと三回泊まる間、月の王子のフリをしてよ。フリでいいからさ」
ジクは驚いていて何の返事もしてこない。
「とにかく、今夜も一緒に眠ってほしい」
「……そ、それは、可能です……」
ジクは俺の布団を捲り、隣に入ってきてくれる。彼からは、ホットミルクに入れてくれただろう、シナモンの香りが微かにした。
「月の王子とさ、十八歳になったら抱いてくれるって約束をしてたんだ。俺、もう二十五歳だよ。だから、抱いてほしい、ジクに」
癒す内容として、性的なことも可能だと最初に説明を受けた。それなのに、ジクは狼狽する。なぜ、どうして。俺のことは抱けないのか。
「ちょ、ちょっと待ってください」
布団の中で後ずさったジクの肘が、ホットミルクが入ったカップに当たり、辺り一面にミルクが飛び散った。
「うわー」
シーツが濡れてしまった。
「すみません。すぐに片づけます。申し訳ないのですが、今夜はリビングのソファで寝てもらえますか?」
掛け布団と枕を持たされ、俺は客室から追い出されてしまった。
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