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四日目・ジク「急患」

 昨晩はホットミルクをこぼしたシーツや敷物を片付けもせず自室に戻り、一人で眠った。  癒し処の主人として、失格だと罵られてもいい程のことを、いくつもしてしまった自分と、上手く向き合えずにいる。  客人をソファで寝かせたこと。  客人が一緒に眠ってほしいと言ったのに一人で眠らせたこと。  客人に「月の王子」のフリをしてほしいと言われたのに、そのごっこ遊びに付き合わなかったこと。  客人に抱いてほしいと言われたのに躊躇ったこと。  客人に情を持ったこと……。  こんな上手く行かないのは、初めてだ。  人を愛した経験などない私だが、もしアロを抱いてしまったら、彼のことを特別に思ってしまう予感がある。  そしてその感情を処理できないまま、遠くへ旅立つという彼を見送ることになるだろう。  別れの日を想像しただけで、取り残されるような気分になって、心が痛くなった。  湖の上空で鳥たちが鳴き始め、浅い眠りから目が覚めた。  階下で眠るアロを起こさないように、静かに階段を降りる。  アロはソファの上で丸まって眠っていた。近づいていって寝顔を覗いたが、眉間に皺が寄っていて悲しみに堪えているように見えた。  かわいそうに。良くない夢を見ているのかもしれない。きっと私のせいだ。  どうか彼が目を覚ましたとき、夢の内容を覚えていませんように。  祈るような気持ちで彼の前を通過し、勝手口から庭へと出た。  私の心が大きく乱れていても、朝の空気は変わらず静謐だ。深呼吸をし、肺に綺麗な空気を吸い込めば少し気持ちが落ち着く。  森の方から視線を感じ振り向くと、一角獣のリムの姿があった。 「おはよう、リム」  そう声を掛ければ、私に向かって歩みを進めてくる。 「そうだ。君の本当の名前はアロだったんだね。アロって呼んだほうがいいかい?でも、私にとっては君の名はリムだし、いいよねリムで」  たてがみを撫でてやると、気持ちよさそうに角を擦り付けてくる。 「月の王子はどんな人だった?優れた人だったんだろうね。そんな人に嫉妬を覚えるなんて、馬鹿みたいだろ」  リムは私にとって唯一の友達だ。でもリムは月の王子のものだった。  なぜか私の心をかき乱す客人のアロだって、月の王子のものなのだろう。 「ごめんごめん、ブラッシングだよね。今朝はたっぷりしてやるからな」  登る朝日を浴びながら、全身くまなくブラシを掛けてやる。その間、リムは心配そうな目で、私のことをずっと見つめてくれていた。  まっすぐに注がれるリムの目を見ていると、少しずつ考えが変わってくる。  リムも、そしてアロも誰のものでもないはずだ、と。  ここにはいない月の王子の存在に、私が囚われるべきではないと、口を聞かないリムがハッキリと教えてくれた。  アロがここに泊まるのはあと二回。しっかり彼と向き合うべきだろう。  昨夜ミルクをこぼしてしまったファブリックを客室から運び出す。湖から水を汲んで、ジャブジャブとそれらを念入りに洗って庭へ干す。  そして昨日、森でアロが収穫してくれた黄色い果実の皮を剥き、種を取り除き、弱火で煮込んでコンポートを作る。  さっきからアロの眠るソファの前を忙しなく行ったり来たりしているが、彼は起きてこない。  おそらく目を覚ましているだろうが、布団に潜ってしまっている。  悪いのは私だから、そんな彼の行動を責めることはできず、叩き起こしたりもできずにいた。  コンポートの甘い匂いに加えて、ベーコンをたっぷり贅沢に使ったスープも作った。  芋を蒸し、それをバターでソテーもした。  そろそろアロも腹を空かして、布団から出ざるおえないだろう。  ソファにできた山が、モゾモゾと動いている。彼もいつ出てこようかと、迷っているに違いない。 「おはよう!ジク」  そんなタイミングで戸口が開き、たくさんの荷物を抱えたダリが入ってきた。 「おはよう。もうそんな時間でしたか?」 「うん、いつも通りだよ。今日はキッチンから特別いい匂いがたくさんするね」  ダリはダイニングテーブルに注文した品々を並べていく。 「えーと、豆、腸詰、牛乳、チーズ、パン、卵、クルミ……。あれ、アロは?もう帰っちゃったの?」  私は黙ってソファの上の山を指差す。  こんなとき、子どもは容赦しない。無邪気にその山へと飛び込んで行った。 「おっはよう!アロ。お寝坊さんだね」  布団の山からは何の返事もなかった。  その静寂にダリの顔が曇り掛けたとき、にゅっと長い腕が現れダリを捕まえる。  一拍置いて、ダリの大きな笑い声が上がった。 「キャハハ、やだもう、やめてー。くすぐったい。ハハハ、くすぐらないでよー」 「人の睡眠を邪魔する奴は、くすぐりの刑だ!」 「だってもう朝ご飯、できてるみたいだよ。ジクが待ってる。起きろ!起きろ!アロ、起きろー!」  ダリは普段から、そうやって兄弟たちを起こしているのだろう。アロが太陽の王族だとも知らずに、戯れついている。  アロもダリには勝てず、ソファから立ち上がりダイニングテーブルへと移動してきた。 「ダリも食べて行きますか?」  そう声をかけてやれば、「うん」と頷くから三人で食卓を囲んだ。 「美味しいね、アロ」  ダリがそう問えば「ジクの料理は美味いな」とアロが答える。 「でしょ?」 「何でダリが自慢気なんだよ」 「だって僕が配達した食材だもん」 「この黄色い実は、昨日森で俺が採ったんだぞ」  アロと向き合うのは少し先送りされたが、ダリの笑顔に助けられたのは確かだった。  ダリが次の配達に出かけてゆき、また二人になった。  私にはまだまだやることがあり、皿を洗ったり、アロの着替えを洗濯したり、掃除したり、忙しく動き回る。  アロは後ろをついてこなかったけれど、ソファに座り私のすることを目で追い、眺めていた。  途中で「カモミールティーが飲みたい」と声をかけられ「自分でやる」というアロに花の摘み方、分量、湯の沸かし方を教える。  彼は私の分のカップも棚から出し、出来立てのカモミールティーを注いでくれた。  ちゃんと向き合いたいと、アロも思ってくれているのだろう。  ありがたく思いダイニングテーブルにつこうとしたとき、戸口を荒々しくノックする音が聞こえた。  この乱暴なノックの仕方に覚えがあった私の顔は、大きく歪む。  どうしてこのタイミングで。思わずアロを見てしまい、慌てて視線を逸らし戸口へと向かった。 「ジク殿。急患です」 「今、客人がいるのですが」 「それでも急患対応はしていただくお約束ですし、いつもはご対応くださいますよね?」  私は大きく息を吐く。 「まずは客人に断りを入れますから、そこでお待ちください」  深緑色の軍服を着た男が、同じ軍服を身につけた男に肩を貸していた。  肩を借りている男は正気がなく、ぐったりとしている。しかし私の姿を目にし「ジク……」と縋るような、何かを期待するような声を出した。 「お待ちください」  キッパリと伝え、戸口の扉を一旦閉めた。 「どうしたんだ?来客か?」  カモミールティーのカップを両手で持つアロが、不安気に声を揺らす。 「あっ、いえ。あの、急患を連れた者が訪ねてきました」 「急患?軍の制服を身につけているように見えたが?」 「ええ。おそらく隣国との小競り合いに駆り出され疲弊した兵士なのです」 「怪我をしているのか?」  アロは騎士としての責務なのか椅子から立ちあがろうとするから、慌てて止める。 「怪我よりも精神的な疲れを感じたのでしょう。重積に押しつぶされた、というところだと思います」 「その者がなぜここに?」 「強いプレッシャーを受け、一時的に塞ぎ込んだ者が運ばれてくることは、ままあるのです。私に癒してほしいと。さっきの兵士の顔を見たところ、以前この癒し処に滞在したことがある者でしたから、本人がここを指定いたのだと思います」 「それで?」 「……夕刻まで、急患に客室を譲ってもらえませんか?」 「その間、俺は?」  彼は不服そうな顔を隠そうともしない。 「アロは森や湖を散策していてもらえると……。必要であれば、急患である兵士を連れてきた者に、護衛を頼みますが」 「は?必要ない」  アロはカモミールティーを飲み干し、出掛ける支度を始める。  私は慌ててダリが持ってきたばかりのパンとチーズを布で包み、昼食だと渡した。 「俺の革靴は?草履は歩きにくい」  仕舞っておいた靴を出せば、アロは戸口を乱暴に開け、軍服姿の彼らを睨みつけるようにして、森へと歩いて行ってしまった。  すかさず疲弊した兵士が「ジク」と熱い眼差しで私を見つめ、抱きついてくる。  その体勢で、森の入り口からこちらを振り返ったアロと目があってしまい、私は深いため息をついた。  送ってきた兵士が、小さな声で私に問う。 「今のお方は、太陽の王族の第三王子ではありませんか?」 「あの方をご存じですか?」 「いえ、お顔だけ。本来王族のお顔を知る機会など私たちにはありません。しかしあの方は、自ら志願し騎士になられたため、お見かけしたことがあるのです」 「なるほど」 「もうすぐ国交のために遠くの国に行かれると噂で聞きました。王族の多くの皆様は、こうした決定に至ったことを悔やまれ、何か断る大義名分があればとおっしゃっているとか」  アロを思って考え込んでしまった私に兵士が何か誤解をして、詫びる。 「申し訳ありません。お喋りが過ぎました。では夕刻に迎えに参ります」 「できるだけ早くお迎えに来てください」 「承知しました」  兵士は指先まで綺麗に伸びた敬礼をし、急患を残して湖の畔の道を帰っていった。 「まず、スカーフをお取りになって、お寛ぎください」  そこからの私は、急な客人とプロフェッショナルに接する。  彼が飲みたいという異国の茶を淹れ、飲んでいる間に風呂の水を溜める。  風呂を沸かす間、彼の抽象的な話を聞きてやり、適度に相槌を打った。  一緒に風呂に入り、頭や身体を洗ってやって、湯上がりの彼が葡萄をつまんでる隙に、客室のベッドに新しいシーツを張り、整える。  私の腕の中で客人は抑圧していた己を解放し、痴態を晒した。奔放に声を上げ、快楽を求め、全身を震わせ溺れていく。 「もっと、もっと」  貪欲に行為は繰り返され、彼の中のモヤモヤした不安や濁りは全て排出された。  そしてようやく、スーと眠りに落ちていった。  彼が眠れば私はすぐにベッドを出て、何かを隠蔽するように風呂の水を入れ替え、茶を飲んだカップを洗い片づけた。

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