8 / 14
四日目・アロ「迷子」
急患だかなんだか知らないが、突然おかしな奴がやってきて、俺は癒し処を放り出された。腹を立てて当たり前だろう。
森へ入る手前で振り向いたとき、ジクは男に抱きつかれていた。
俺が「抱いてほしい」と頼んだだけで動揺し、ホットミルクが入ったカップを倒したくせに。あんな奴のことは仕事だからと、受け入れるのだ。
革靴でザクザクと枯葉や枝を踏みしめながら、森の中に分け入っていく。
行く先にあるのは、獣道のような心許ない道だけだ。いっそのこと奥へ奥へと迷い込んで、ジクに探しに越させようか。
森を一人ぼっちでむやみに歩き回ったところで、面白いことは何もなかった。
昨日ジクと、宝石のある洞窟まで歩いたが、あのときは、草花にも目がいき楽しみを感じたのに。今日は手の長い猿も、姿を見せてくれない。
空を見上げても大きな木々が生い茂り、太陽は見えなかった。方向感覚が狂ってしまったが、それでもいいと自暴自棄になっている自覚がある。
このままジクのところにも戻りたくない。遠い国に婿にも行きたくない。
そんな気分で当てもなく歩いていると、何かの建物の屋根が見えた。
どこに出たのだろう?退屈しのぎに近づいてみようと、歩みを進める。
微かに動物が鳴くような高い声が風に乗って聴こえた。苦しんでいるような、呻くような声。怪我をした動物でもいるのではないかと心配になる。なんの薬草も持ち合わせていないが、水なら飲ませてやれる。パンを食べれるのならば、昼ご飯を分けてやってもいい。
建物に近づくにつれ、その高い呻き声は、はっきりと聴こえるようになった。
「あぁ、い、いい、ジク。……もっと、もっと。そう、そこ、あっ、あぁ、ジク」
なんだこれは!
「……ん、ジクぅ、いい、ねぇ、もっとおく、おくまで、あぁ、ん……」
辺りを見渡せば、ジクが丹精込めている葡萄棚があった。森を歩き周った挙げ句、癒し処の裏に出たということか。
「もう、もうだめ……ジ、ク、あぁぁぁ」
その声色に嫌悪感を覚えゾッとする。
だったら耳を塞ぎ、とっとと回れ右をして森へ戻ればいいはずだ。
なのに。なのに。
その声に囚われて、この場を離れることが出来ない。ジクの声は少しも聴こえないのに、知らない男の声を通して、彼の姿が目に浮かぶ。
想像の中のジクは裸で、酷くイヤらしい顔をして煽ってきた。
太陽の王族である自分が、こんな盗み聴きのようなことをして、興奮を覚えているなんて信じられない。
でもどんなに頭を振り払っても、身体に起きてしまった変化は制御できなかった。
さかった獣のような高い声がまた達しそうになったとき、俺は森の奥に向かって全速力で走り出した。
走って走って、自分の下半身に起きた変化を鎮めたくて、体力が尽きるまで、どんどん森の奥へと進んでいった。
騎士として日頃から訓練に励む俺の体力は、なかなか尽きない。だから、ただ獣道に沿ってハッハッと息を吐きながら、全力で脇目も振らず走り続けた。
右に曲がったり左に曲がったり、どれくらいの距離を走っただろう。さすがにスピードが落ちてくる。それでも足を動かし続ければ、体力も限界が近づいてきた。
急に足がもつれた。地面に張り巡らされた蔦に引っかかり、バタンと無様に転がった。
枯葉の上にうつ伏せに倒れたまま、静かに泣いた。
ずっとずっと会いたかった大好きな人、月の王子。十年ぶりに会えたのに、俺を思い出してくれるという奇跡は起きなかった。
それでも、ジクという新たな名になったその人の傍にいるだけで、自分の心が癒されていくと感じ始めていた。
月の王子のことを、諦めきれなかったのも事実だったが、ジクと王子はイコールではない、ということにも気づいたばかりだ。
十年前までの王子との思い出、この数日間のジクとの思い出。その二つを持って遠い国に旅立とうと、昨晩ソファで寝返りを打ちながら考えていた。それがこれからの生活の糧になってくれるはずだから。
朝になったら「王子のフリをしてくれ」と言ったことを、ジクに素直に詫びるつもりだったのに……。
当たり前のことを一つ、忘れていた。
さっきの声を聴いて、それに気がついた。
ジクはこれが仕事なのだ。俺のことを癒してくれたのも、彼にとっては仕事なのだ。
どうしてそんな大切なことが、抜け落ちていたのだろう。馬鹿みたいだ。
騎士の仕事をしていても、皆がどこか「あの人は太陽の王族だから」と踏み込んでこない部分がある。
やはり俺自身に王族だという奢りがあったのだろう。
ジクに対してもきっと、自分は特別だと奢っていた。
俺は、仕事として癒してもらったことを、今後の糧にできるだろうか?
気がつかなければ、できたかもしれない。
でも、あの急患のせいで現実を知ってしまった。もう魔法のような癒し効果は、消えてなくなった。
うつ伏せのままでいたから身体が冷えてしまい、ゆっくりと立ち上がった。借りている上衣も下衣も汚れてしまって、手で払ったが汚いままだった。
帰ろう。
癒し処に帰って、もう明日には城へ戻ろう。
ジクも一日早く仕事から解放され、ホッとするに違いない。
森は深く、空はほとんど見えなかった。僅かに見え隠れする空も青くはなく曇天で、今日は夕焼けも現れないだろう。
辺りが暗くなるのも早いかもしれない。だから早く森を抜けなれば。ジクに迷惑はかけられない。彼に面倒な客人だと思われたくない。
とりあえず、来た道を引き返し始めたが、その道は幾重にも枝分かれしていて、どちらに進むべきか皆目わからなくなってしまった。
—
森の中が真っ暗になれば、気温も急激に下がってきた。
風が木々をザワザワと揺らし、コウモリの群が鳴く声が聴こえる。
昼ご飯にと持たせてもらったパンとチーズは、走っている途中に落としてしまったようで、どこにもない。
「草履じゃなくてよかった」
わざと声に出して呟いてみるが、その声すらも暗闇に吸い込まれていく。
迷子だ。完全に。
右へ行くべきかも、左に行くべきかも、夜の森にどんな危険が潜んでいるかも、わからない。
こんなとき頼りになる自慢の体力ですら、さっき極限まで使ってしまった。
それでも一歩一歩、よろけながら進んでいた。だがついに、大きな木の根元に座り込んでしまう。
「寒いな。それに眠いな……」
昨晩も、ソファで朝方まで眠れずに過ごした。厳しい訓練の後でもなかなか寝付けないと悩んでいたが、これだけ体力を使えば添い寝などなくても、すぐ眠れそうだ。
砂だらけの国に行ったら、たくさん走ろう。でも砂の上は走りにくいだろうから、草履のほうがいいだろうか?……。
半分夢を見ているようで、思考回路が鈍っている。
明日の朝になったら、ジクが探しに来てくれるだろう。いや、軍に連絡をし救援を呼ぶだけかもしれない。
それでもいい。できたらジクに会わずに城に帰りたい。こんな情けない姿、見られたくない。
ウトウトした身体は安定を失い、左右に揺れていた。ぐらっと大きく傾いたとき、温かいものに触れる。何も考えられずそれに抱きつき、暖をとった。
「あったかいなぁ。でもくすぐったい」
毛並みのいいたてがみが、肌に触れてくる。立派な一本角を俺に擦り付けてくれる仕草で、その正体が分かった。
いつの間にか音もなく近づいて、寄り添ってくれていたのだ。
「アロ。来てくれたのか、ありがとう。いや、今はジクが名付けたリムだったな。リム、ありがとう。リム、俺は寂しいよ、リム……一人にしないで、リム」
一角獣は俺を慰めるように、さらに身を寄せて温かさをくれた。
夢を見ている。
夢の中で、誰かが一角獣の名を呼んでいた。
「アロ、アロ、どこにいる、アロ」
そうだこれは、月の王子の声だ。懐かしい。いいな、名前がある生き物は。俺も月の王子に呼んでもらいたい。
第三王子なんてつまらない呼び名じゃなくて、親しみを込めて、愛称を呼んでもらいたい。
「アロ、アロ」
いや違う。今、アロと呼ばれているのは俺だ。そして俺をアロと呼ぶのはジクだ。
ジクに会いたいな。またホットミルクを作ってもらいたい。また一緒に眠りたい。
仕事じゃなく、俺のことを見てほしい。
お願いだから、俺を見て。俺だけを見て。
突然、枕になってくれていたリムが立ち上がり、俺の体勢は崩れ、目が覚めた。
「リム?」
リムは空を見上げたかと思うと「ギャァァァア」と凄まじい声で鳴いた。
一角獣の鳴き声を聴いたのは初めてだ。
夜の森にこだまするように、その声が辺りに響き渡った。
それからもリムは、間を開けて何度か鳴いた。
鳴いている理由が分からないから、何か危険が迫っているのかと怯えたが、リムの様子を見る限りそんな雰囲気ではない。
暗闇の中、俺の傍を離れずにいてくれる一角獣は、頼もしかった。
どうしてこの生き物のことを凶報だという言い伝えがあるのか、まるで分からない。一角獣は、賢くて優しい生き物だ。
さっき少し眠ったことで眠気も去り、体力も僅かに回復した。寒さもリムが風よけになってくれているから、辛い程ではない。
そうすれば俺の頭も、多少はまともに働くようになってくる。
夜が明けたら、きっとリムがジクのところへ案内してくれるだろう。
そしたらまず、何を言おう。心配かけたことを詫び、もう城へ帰るから安心してと伝えよう。ジクはきっと笑顔を見せてくれる。
「アロ、アロー」
いや、やっぱりダメだ。頭の中はまだ半分眠っているみたいだ。聞こえるはずのない、ジクが俺を呼ぶ幻聴が聞こえてしまう。
「アロ、どこ、アロー」
幻聴は聞こえ続ける。
するとリムが空を見上げ、また「ギャァァァア」と鳴いた。
「アロ、そっちですねー、今行きますからー」
声はさっきより近づいている。
まさかこんな夜中に、真っ暗な森を探しに来てくれたのだろうか?軍隊は夜の森を禁忌とし、絶対に入らない。つまり、ジク一人で俺を探してくれているのだ。
「ジクーーーー!」
大きな大きな声で叫んだつもりが、声が掠れていて、響かない。
それでも叫び続けた。
「ジクーー、こっちだーー、俺はここにいるーー!」
リムが見つめている方向に、チラチラとランプの灯りが見え隠れする。
ジクが本当に来てくれたのだ。俺を探しに、真っ暗な森の奥深くまで。
「あぁ、ジク……」
情けないことに、ホッとした途端、身体の力が抜けてゆく。
気がついたときには、ジクに背負われ運ばれていた。彼の背中は温かく、リズムのよい揺れが心地いい。
リムも道案内で一緒に歩いてくれているようだ。
迷惑をかけてしまった。謝って、礼を言わなくては。
でも、もう少しこのまま、ジクに背負われていたい。臙脂色の軍服を着た月の王子に背負ってもらった幼い頃を思い出しながら、愛おしいジクの背中で眠りたい。
ともだちにシェアしよう!

