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五日目・ジク「蔓籠」

 館に帰りついたのは、もうすぐ夜が開ける頃で、雨が降り始める少し前だった。  私は背中でぐっすり眠っているアロを客室のベッドに寝かせ、勝手口の外に待たせたリムのところへ引き返した。 「ありがとう、リム。本当に助かった。リムが居てくれなかったら、夜のうちにアロを見つけることは、できなかった。そしたら、どんなに不安な夜を過ごさせることになってしまったか」  リムに繰り返し礼を言いながら、ブラッシングしてやる。 「お手柄だよ、リム」  ブラシをかけている途中で、ポツポツと雨が降り出し、程なくして本降りとなった。 「ちょっと待っていて」  勝手口の軒下に、藁をたっぷりと敷いてやる。 「リムも寝ていないでしょう。ゆっくり休んでいくといい。それからこれも食べておくれ」  葡萄を差し出し頭を撫でてやれば、角を私に擦り付け親愛の情を示してくれた。 —  昨日、急患で訪れた男は、私との性行為のあと目を覚ますと、別人のように礼儀正しくなっていた。  突然訪ねた無礼、癒されたことへの礼、今後はこのようなことがないよう務めたいという決意を、最敬礼と共に述べた。  これなら迎えがなくても一人で帰れるだろうと思ったが、今更キャンセルはできない。  道中、行き違いになっても気の毒なので、カモミールティーを飲ませて、ダイニングテーブルで待つように伝えた。  私は森へ入っていたアロの所在が気になっていたが、迎えが来るまではこの男に付き合うしかない。 「少しお尋ねしますが、太陽の王族の第三王子が遠くの国へ婿に出るという話は、聞いたことがありますか?」 「え?あ、はい。……あの癒し処では、まつりごとや俗世の話はタブーだと伺っていますが」 「まぁ、そうです。しかし貴方もイレギュラーなのですから、たまには良いではないですか。茶飲み話だとお付き合いください」 「そういうことでしたら。第三王子は明後日の午後、旅立たれます。城では式典が催される予定で、私はその警備につくことになっています」 「式典とはどのようなことをするのですか?」 「楽団による演奏や、舞の披露など、第三王子へのはなむけとして行われます。……しかし、ここだけの話ですが、皆、第三王子には遠国に行ってほしくないのです。あのお方あっての騎士団ですから」 「慕われているのですか?」 「えぇもちろん。私などはお顔を拝見したことは一度しかありませんが、皆の憧れであります」 「婿に行かれたら寂しくなりますね」 「ですから、楽団や舞を踊る者の中には、遠国の使者が驚いて逃げ出したくなるような選曲にしよう、なんて案もあったようです。それを実行することは、宮仕えの者には不可能でしょうけれど」 「なるほど」  ノックの音がして、彼の迎えが来たことを知らせる。 「では、お元気で」  再び敬礼をし、急患は帰っていった。  その後、私は無理をお願いしたアロへの礼と詫びのつもりで、いつもより豪華な夕食を用意した。  鍋が煮え、パイが焼き上がり、テーブルセッティングが終わっても、アロは帰ってこなかった。  湖の畔を探し、森の入り口を探し、納屋の中も覗いたが、どこにも姿はない。  建物の裏手から少し進んだところに、私が持たせたパンとチーズが、包んだ布ごと落ちているのを見つけた。つまりアロは、昼食も口にしていないということだ。  募る不安は増していく。心配で、心配で、アロがいるのに急患を受け入れた自分を、強く悔やんだ。  空は真っ暗になり、月も星も無く、ランプやキャンドルを使わなければ、何も見えない。  どうしているのだろう、アロ……。  私はダイニングテーブルに書置きをする。 『帰りが遅いので、探しに行きます。入れ違いで帰宅されたら、鍋を温め先に召し上がってください。今日のことは、ごめんなさい。ジクより』  暗い森は私でも恐ろしく、必要以上の不安を煽られる。  アロに何かあったら、アロが居なくなってしまったら、アロに二度と会えなかったら、どうしよう。私にとってアロは、他の客人とはどこか違う存在だ。曖昧にそう感じていたが、今ならば分かる。  アロは私にとって特別な人だ。たった数日一緒に暮らしただけだけれど、ハッキリ、言い切ることができる。  仕事としてではなく、彼に触れたい。彼の喜ぶ顔が見たい。彼の婿入りを阻止したい……。  獣道の途中で立ち止まり、ランプを掲げ辺りを見回す。ここはさっきも通った場所ではないか。  森に慣れた私でも、深い暗闇に方向感覚を失いかけている。歩いても歩いても、アロの姿を見つけることはできない。  そのとき、あの声を遠くに聞いたのだ。 「ギャァァァア」という凄まじい声は、初めて耳にしたものだったのに、一角獣の鳴き声だとすぐ分かった。  リムが私を呼んでいる。きっとアロの居場所を伝えようとしてくれてる。そう信じることができた。 —  ダイニングテーブルに出しっぱなしの食器やカトラリーを、片付けた。書置きも破いて捨てる。  客人には出さない秘蔵の葡萄酒を一杯だけ飲み、長かった夜を振り返った。  とにかくアロが無事でよかった。今はそれだけで充分だ。  雨音を聞きながら二階への階段を登る。自分の寝室へ入るか、客室へ入るか迷ったが、客室の扉を開けた。そしてアロが眠る温かいベッドへ潜り込む。 「もう朝だけど、おやすみ、アロ」  小さく声をかけ、私も眠りについた。 — 「ジク」  声を掛けられ、ゆっくりと目を開けた。 「あぁ、アロ。おはようございます」  ベッドの脇に立った彼が、私を見下ろしている。 「お腹が空いたでしょう。今、朝ご飯の支度をしますね」  起きるために、まずは大きく伸びをする。  アロには、急患のことを謝りたかったし、怪我をしていないか確認したり、よく眠れたか聞きたかった。風呂も沸かしてやらなければ。  でもまずは、彼の空腹が気になった。丸一日、何も食べていないはずだから。 「いや、それより、俺、もう帰るよ」 「え?帰る?」 「昨晩も迷惑を掛けて申し訳なかった。ごめんなさい」  深々と私に向かって頭を下げた。  私はベッドの上でガバッと上半身を起こし、アロの左手首を掴む。 「何を言っているのですか?謝るのは私のほうです。それに帰るのは明日でしょう?」 「気が変わった。少し早いけど、帰ることにしたんだ。だから軍の服を返してほしい。着替えたいから」 「そんな……。どうして?昨日のことは謝罪します。全面的に急患を受け入れた私が悪かったんです。ですから、どうか明日まで、ここに居てください」 「いや、でも……。ジクだって仕事が一日早く終わったほうがうれしいだろ?」  両手で、アロの右手を包むように握りしめ、首を何度も横に振る。 「お願いです。外は雨ですよ。それに、昨日の夕飯用に作った料理がたっぷりとあるんです。私一人ではとても食べきれません。どうか、どうか、もう一晩、泊まっていってください」  意図せず声が震えてしまった。その声にアロも動揺する。 「し、仕事だからか?客を途中で返すと、軍に何か言われ問題にされるのか?だったら俺から、」 「違います、アロ。まだアロと一緒に居たいから。仕事じゃなくもっと貴方を知りたいから。ねぇ、お願いです。帰るなんて言わないで」  アロの右手が、私に向かってゆっくりと伸びてくる。  そして、頬を拭ってくれた。 「泣くなよ」  口を尖らせたアロが私に言う。 「泣くなって。そんな顔するから帰れなくなっただろ」 「アロ」  私は彼を抱き寄せた。アロはされるがまま、私の腕の中に納まってくれた。温かい、とっても。泣くつもりなんてなかったのに、また涙が零れる。アロも、鼻を啜っていた。  ぐぅー。  抱きしめていたアロの腹の虫が盛大に鳴り、私たちは二人とも笑顔になる。 「さぁ、朝ご飯にしましょう」 「もう昼だけどな」 「よく眠れましたか?」 「あぁ、よく寝た」 「痛いところは?」 「大丈夫。少しふくらはぎが筋肉痛を起こしているくらいだ」 「そう。よかったです」  私たちは客室から出て、並んで階段を降りる。 「怒ってないのか?」 「私が?いいえ、全く。昨晩のことでアロがどれだけ大切な人か思い知れましたから」  アロは照れたようにそっぽを向く。 「そうだ俺、リムにも礼を言わないと」 「リムなら勝手口の軒下にまだいるかもしれません」  アロが駆けて行って勝手口を開けたけれど、もう森へ帰ったようで、リムの姿はなかった。  キッチンに入り、昨晩作ったトマトとキノコの煮込み料理を温め直し、すっかり冷めてしまったカボチャとラム肉のパイをカットした。  パンには炙ったチーズをたっぷりとのせ、搾りたての葡萄ジュースもグラスに注ぐ。 「いただきます」 「どうぞ、召し上がれ」  アロは、ガツガツと食べ始める。 「うん。すごく美味い!」 「かなりお腹が空いていたのでしょう」  アロの食べっぷりは見ていて、気持ちがいい。私の空腹も刺激され、アロに負けないくらいの量を平らげた。  山盛りよそった分を更にお代わりし、腹が満たされてきた頃、アロはぽつぽつと喋り始めた。 「ジクに、謝らなければいけないことがある」 「昨晩のことはもういいのです。悪いのはむしろ私ですし」 「いや、一昨日のことだ。俺はジクに、月の王子のフリをしてほしいと頼んだ。それを謝りたい。ジクは、ジクだから。ジクのままで居てくれれば良かったのに」  アロはここに来てからずっと、愛する月の王子と癒し処の主人である私を、重ねて見ていた。  でも、そうではなく、私は私でいいという。心の奥が温かくなり、報われたように感じる。 「ありがとうございます」  素直に礼を言えば、アロは照れくさかったのか「カモミールティを入れるよ」と立ち上がり、雨の中、花を摘みに行ってくれた。  私はダイニングテーブルの食器をキッチンへ下げ、薬缶を火にかけた。  午後は、この前拾った宝石を入れる蔓籠を二人で作った。  私が森から採取し、干しておいた蔓を使って、小さな籠を編んでいくのだ。 「むき出しの石で先方にお渡しするより、小さな籠に入っていたほうが、プレゼントらしくなると思いますよ」 「確かに」 「こうして、こうして、ここをこっち側へ持ってくるんです」  アロもしばらくは蔓と格闘していたが、途中で「俺には無理だ―」と放り出してしまった。  意外と手先は不器用らしい。 「ジクが作って」  そんな姿さえも愛おしく思え「はいはい、お任せを」と引き取って続きを作る。 「二つでしたよね、アロが拾った石は」 「あ、うん。そう」 「じゃ、私が拾った石の分と合わせて三つ作りますね」  アロはダイニングテーブルで私の隣に座り、作業する手元をずっと眺めていた。 「アロ」 「ん、なんだ?」 「この石、花嫁さんへのプレゼントですか?」 「あぁ、そうなるんだろうな。会ったこともない人だけど」 「もし、もしもですよ、遠国に行かなくてよくなったら、どうしますか?」 「何か策があるのか?」 「いや、そういう訳じゃないですけど、アロの本心を知りたくて」  アロはカモミールティーのお代わりを口にしながら、答えをくれる。 「もし、砂だらけの国に婿に行かなくて済んだらさ、俺は旅に出るよ。隣国を見て回るんだ。そして他国の優れているところを、この国に、そして騎士団に取り入れる、そんな役割に就きたい」 「旅ですか」 「そう。だって旅の準備は終わってるし、騎士団は俺が居なくても成り立つ編成になってしまったし」 「いずれにしろ、会えなくなってしまいますね……」 「違うよ。ジクも一緒に旅に出るんだ。二人で色んな国を見て回って、またこの癒し処に帰ってこよう。……ま、夢みたいな話だけどな」  これ以上ない程の良いアイデアを口にしながら、アロは寂しそうに笑った。

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