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五日目・アロ「期待」
いつの間にか雨は止んで、空を覆う雲もどこかへ流れていった。濡れた地面には夕焼けが映り込んでいる。
ここを旅立つ前、もう一度夕陽を眺めたい、という俺の願いが叶ったようだ。
ジクと二人、湖の畔に出してもらった簡素なベンチに座り、言葉もなく沈みゆく太陽を見守った。
オレンジ色の光が沈みきったとき、ジクが俺の手をそっと握ってくれる。
「ここで過ごす最後の夜ですね、アロ」
コクリと頷く。
「今夜は私がアロを、とびきり特別にもてなします」
イエスもノーもなく、そう告げられた。
なんだろう、ジクが急に醸し出した大人な雰囲気に、俺は早くも胸が苦しくなっている。
そもそも俺は十五歳のとき、初恋の相手である月の王子との別れを経験し、それ以来、誰のことも好きになったことがない。これは十年ぶりの恋なのだ。
ジクの正体は月の王子なのだから、同じ相手ではある。でも俺が今ドキドキとしているのは、癒し処の主人であるジクだ。
俺の子どもの頃を知っていて揶揄ったりしてこない、新たに出会った愛おしい人。明日にはお別れしなければいけない、大好きな人。
「ちょっとここで待っていてください」
暗くなったベンチに一人残されると、暗闇の森を思い出しそうになったが、夜空には星が瞬いていた。ベンチから立ち上がり、森のほうを振り返れば、少し欠けた丸い月も見えた。
ジクはすぐに戻ってきてくれる。
「今日は焚火をして、その火で肉や野菜を焼いて食べましょう」
運ばれてきた皿には、切り揃えられた食材が串に刺さって並んでいる。
さっき、キッチンで作業するジクを手伝おうとしたら「二階で休んでいてください」と追い出され、少し拗ねてしまった。この串の準備をしていて、俺を驚かせたかったのだと分かれば、全て許せる。
ジクは、湖の畔で、効率よく薪と枯葉を組みあげ火をつけた。パチパチと薪が燃え出せば炎に照らし出され、闇夜に二人だけが浮かび上がる。
ジクは、肉も野菜も刺さった串を、上手く炙って満遍なく火を通してくれる。器用だし、やりなれているようだ。
「今、どの客人にも、最後の夜にはこんなことをするのか?って思ったでしょう?」
「……思った」
心を読まれたのかと、驚く。
「しませんよ、他の客人には、こんな特別なこと。一人の夜にここで湖を見ながら食事がしたいと、時々するくらいです。安心しましたか?」
認めるのも癪で、プイと横を向いたが、美味そうに焼けたラム肉とトウモロコシを目の前に出されれば、躊躇うことなくかぶりつく。
「どうです?美味しいでしょう?」
コクリコクリと頷いて、口いっぱいに頬張った。
「ダリが持ってきてくれた腸詰もありますからね」
今夜はこの食事だけでも、きっと忘れない夜になる。そう思った。
このまま永遠に焚火を囲んでいたくても、食材は全て腹に入り、持ち出した薪も尽きて炎が小さくなってゆく。
「アロ、風呂を沸かしてありますから。どうぞ先にお入りください」
「ジクは?」
「私はここを片づけてしまいますから」
「俺も手伝うよ」
ジクは静かに首を横に振る。
「私たちの時間には限りがあります。効率よく進めていかないと、ベッドの中で過ごす時間が短くなりますよ」
その言葉の意味に想像が巡りドキッとしてしまう。
ただ単に、睡眠時間が短くなるという意味なのか、それとも何かしようというのか……。恥ずかしくて意味を訊き返すことはできない。
「わ、分かった。俺は風呂に入ってくる」
「えぇ、そうしてください」
一人でハーブが浮かんだ風呂に浸かれば、いつもより念入りに身体中を洗ってしまった。
片づけを終えたジクが、俺に続き風呂に入った。
俺はその間に、ジクの真似をしてホットミルクを二つ作る。自分の分にはたっぷり蜂蜜を入れ、シナモンはどちらのカップにも振りかけた。
ホットミルクが出来上がってしまえば、することがなくなり、妙にソワソワと部屋の中を動き回る。
風呂から出たジクに、「どうしました?」と訊かれたが、ストレッチをして誤魔化した。
「明日は、何時頃にお帰りになりますか?」
「夜は晩餐会に出なければならないんだ。だから昼前には、ここを発つ。パンか何かを昼ご飯として持たせてもらえると、ありがたい」
「承知しました。明日の朝は、リムにも会いたいですよね?」
「会いたい!」
俺を助けてくれた一角獣に、まだ礼が言えていない。
「では、明日は早起きしなくてはいけませんね」
ダイニングテーブルでホットミルクを飲みながら、そんな会話を交わす。穏やかな時間だった。このまま二人で温かいベッドで眠るだけ。そんな雰囲気。
どうやら俺一人が、変に期待していただけのようだ……。
「実は、アロ。私、思い出したことがあるのです」
「え?それって!」
思わず大きな声を出してしまう。
「ごめんなさい、そうじゃないんです。私が月の王子だったとか、そんな夢のような話ではなくて……」
一瞬期待してしまったことを、否定はできない。
「俺こそごめん。どうぞ、続けて」
「私の記憶は十年前、このダイニングテーブルに座っているところから始まります。そのとき、私の目の前には魔術師だと名乗る男がいました。彼は私に密封された箱を渡したのです」
「箱?」
—
「この箱の中身が役に立つときが来るだろう。それまでは決して開けてはいけない」
「中身は何ですか?」
「それは言えない」
「けれど、中身が分からなかったら、役立つときがいつなのかも分かりません」
「だろうな。でも、今だ、と思うときが必ず訪れる。それまでは目につかないところに埋めておくなり、するといい」
「それは魔法とかそういう類のものですか?開けたら記憶が戻るとか」
「いや入っているのは、ただの思い出だ。記憶は一生戻らない。期待しすぎてはいけない」
—
「全く意味の分からない会話だったので、今の今まで忘れていました」
「それでその箱はどこにあるんだ?」
「ヒクイドリのいるあの島に埋めました。もしあの魔術師が言うことが本当だとするならば「今」は今だと思うんですよね」
「明日、掘り起こしに行こう」
「えぇ。でもあまり期待しないようにしてくださいね」
会話が終わる頃には、二人ともホットミルクを飲み干して、カップは空になっていた。
ジクはカップを洗い、キッチンの火の始末を確認する。ランプやキャンドルの灯りがほとんど消えてしまえば、余分なものが目に入らなくなった。
見えているのは、ジクのみだ。
「アロ」
かりそめの、たった二文字の名前を呼ばれただけで、胸の奥が締め付けられる。
月の王子が一角獣に付けた名「アロ」。今、ここでは俺のことを指す名前。
「私もアロと一緒に客室で眠りたいのですが、よろしいですか?」
一回深呼吸をしてから、意を決して「もちろん」と答えた。
「では、いきましょうか」
手を引いてもらい二階への階段を上がっていく。
ただ指が触れ合っただけで、怯えなのか期待なのか分からない震えが止まらない。
「ジク」
客室の扉の前で、情けない声を出してしまった。
「ん?」
ジクが小首を傾げて俺を見つめる。そんな小さな仕草にも、今まで見てきたジクとは別人に見えるほどの色気が溢れ出している。
「ジク、俺、すごいドキドキして、やばい、かもしれない……」
「フフフ。取って食うわけじゃありませんよ、アロ」
ジクが扉を開ければ、客室の中には香が焚かれていて、そのどことなくイヤらしい香りにクラクラとした。
パタンと扉が閉められた。
「アロ。こっちを向いて顔を見せてください」
「いや、あの、ちょ、ちょっとバルコニーで涼んでいいか。なんだか身体中熱くって、俺、おかしくなりそ」
夜風の吹くバルコニーは、程よく俺の身体を冷やしてくれる。
湖の水面には空に浮かぶ月が、鏡のように映っていた。それを見ていたら、少しずつ心が落ち着いてくる。
フワッと背後から包まれるように、ジクに抱きつかれた。
「大丈夫ですよ。うんと気持ちよくしてあげますから。アロは蕩けていればいい」
耳元でそう囁かれれば、身体に力が入らなくなって、彼に体重を預けてしまう。
ジクはそんな俺の身体の向きを、軽々と変えてしまった。
向き合って、見つめ合って、後頭部を押さえられれば、ゆっくりと唇が重なった。そのキスはあっという間に甘く深くなってゆく。
俺はもう少しも怖くなかった。
ジクをもっともっと感じたいから、自ら舌を絡ませにいく……。
「アロ。ここで脱がせるわけにはいきませんから、ベッドに行きましょう。ね?」
コクリと頷き、バルコニーから部屋へと戻る。俺の心はもう揺れない。ジクとの最後の夜を忘れられないものにするんだ。
この一夜を糧に、これから砂だらけの国で生きていくのだから。
途中、一度だけ盗み聴きした急患の声が頭をよぎった。
あのときは彼の声しか聴こえなかった。でも今のジクは常に「アロ、アロ。あぁ、私の愛しいアロ」と名を呼んでくれている。
「ん、アロ、溶けそうだ……とても、とても、いい」
そんな恥ずかしいことも、行為の途中で口にしてくれた。
俺は嬌声を零しながら、ジクにしがみつき続ける。
めくるめく夜に、ただただ夢中になった。
—
暗いうちに、なぜか目が覚めた。まだ湖に住む鳥も鳴いていない。
隣を見れば、ジクが裸で眠っている。俺も裸のままだ。
ジクの穏やかな寝顔を見ながら、考える。
この癒し処に来て、俺はジクにしてもらってばかりだった。
客人と主人だからそれは当たり前だったが、今は違う。俺からも、ジクに何かをしてやりたい。
しかし、剣も手元に無い今、俺に出来ることなどあるだろうか?
最後の朝食を作るのはどうだろう?ベーコンエッグくらいなら俺にも作れるのではないか。キッチンに行って、食材を見てみようか。今から作り始めれば、どんなに時間が掛かったとしても、朝ご飯に間に合うだろう。
ジクを起こさないように、そろりとベッドから降りようとした。
そのとき、ジクが俺のほうへ寝返りを打って、小さく何かを呟いた。
「ルー」
耳を疑う。俺の聞き間違いだろうか。十年前、月の王子が俺を呼ぶときに使った愛称を、ジクが呟いたのだ。
「ウー?」
私も彼の愛称を呼ぶ。
「ルー。おいで……」
長い腕を伸ばして、俺を包み込んでくれた。ジクがふざけているのかと顔を覗き込むが、スースーと一定リズムの呼吸を繰り返し眠っている。寝言なのだろうか?
「ウー」
もう一度呼びかけてみる。ジクの口角が幸せそうに上がったが、もう返事はしてくれなかった。
ジクの中から月の王子の記憶は全て消えてしまった、と聞いている。
でも。もしかすると心のどこかに、王子だった頃の思い出が、ほんの少し眠っているのかもしれない。
堪らなくうれしくなって、ジクの背中に腕を回す。
朝食を作ろうと思ったことは、どうでも良くなってしまった。この幸せな時間をギリギリまで味わおうと、ジクの体温を感じながら再び目を閉じた。
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