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七日目・ジク「臙脂」

 アロのいない朝。  彼がここに泊まったのはたったの五回の夜だったのに、半身が消えて無くなったような寂しさを感じつつ目が覚める。  昨日の昼前、アロが騎士団と共に帰ってしまってからの私は、客室のベッドの上でずっとゴロゴロし、ふて寝を繰り返している。浅い眠りから目覚めては眠り、また目覚め、また眠る。  夜が終わり、湖の上空では鳥が鳴き始めた。  いい加減この状態から抜け出し、気持ちを切り替えるべきだろう。頭では分かっているが、身体はなかなか動かなかった。  そろそろ一角獣のリムが庭に顔を出す時刻だ。 「よしっ」  わざと大きく声を出し気合を入れ、勢いよく上半身を起こした。  しかし、こんな日に限ってリムは姿を現さなかった。元々、毎日尋ねてくる訳ではないのだが、会いたいと思う朝に会えないのは、残念だ。  それでも湖の見える庭で、朝の空気を胸いっぱいに吸い込めば、気持ちも多少切り替わる。  カモミールの白と黄色の花を摘み、キッチンで湯を沸かし、卵をスクランブルして、パンを薄くカットする。  いつも通りを心がけ、身体を動かしていった。    朝食を食べ終えると、自然とため息が出た。  昨日アロに「城まで見送りに行きます」と伝えた。城まで行くのなら、もう支度をし始めなければ間に合わなくなる。  その前にまだ「箱」も開封していない。一人で開けるのには勇気が必要で、中身を見てガッカリするだろう自分と向き合えない。  とりあえず一つ一つこなして行こうと、まずはペンと紙を用意し、手紙を書いた。 『担当者殿。しばらく休暇を取らせていただきます。よって新規の客、および急患は受け入れられません。湖の畔の癒し処主人ジクより』  書いた紙を折りたたみ封筒に入れ、宛先に軍の担当部署を記載して封を閉じた。 「おはよう!ジク」  配達の少年ダリはいつもと変わらぬ元気な声を出す。 「何してたの?ジク。お手紙?」 「おはよう。ダリ、これを郵便局へ持って行ってもらえますか?駄賃は支払います」 「うん。いいよ。ジクこれ、母さんから。葡萄のお礼のクッキーだよ。ナッツがたっぷりと入っていて美味しいんだ。アロと一緒に食べてね」  そう言ってダリはキョロキョロと部屋を見渡す。 「アロは?お寝坊さんは、まだ二階で寝ているの?」 「彼は昨日帰りました」 「え?もう?もっと仲良くなりたかったのに……」  寂しそうな顔をするから、頭をポンポンと撫でてやった。 「そうだ。この前、僕が配達に来た日の夜、森で一角獣が何度も鳴いたのを知ってる?すごく怖い声なんだよ。みんなが驚いて目を覚ますくらい」 「耳にしましたよ」  リムが私を呼んだ声のことを言っているのだろう。 「おじいちゃんがね、一角獣が姿を現したり鳴いたりすると良くないことが起きるって言うんだ。妹たちは怖がって泣いちゃったんだよ」 「大丈夫。それはただの言い伝えですよ。一角獣は心優しい生き物です」 「ジク、会ったことあるの?」 「ええ」 「そっか。僕、アロが早くに帰っちゃったことが、一角獣が知らせたかった良くないことだったのかって、今思ったんだけど、違うんだね」  複雑な気持ちで顔が歪みそうになってしまうが、笑顔を作る努力をする。 「アロには大切な仕事あって、始めから数日で帰ることが決まっていたのですよ」 「ふーん。僕、アロ大好きだよ。また来るといいね」  ダリに返事をしてやることができず、ただ静かにコクリと頷いた。 —  ダリを見送った後、ダイニングテーブルに、ヒクイドリの小島から持ち帰った箱を置く。  アロがしたように私も縦に振ったり、横に振ったりしてみたが、音がするような物は入っていない。  重さから考える私の予想は、折りたたまれたタペストリーや小さな敷物だ。  そもそも、魔術師が言った「今だと思うとき」が「今」だとは限らない。アロと一緒のときは「今」だという思いがあったが、一人になってしまえばその自信が萎んでゆく……。  それでも、ナイフを取り出し、開封する決心をした。  箱の中身を確認したら、着替えをして城へ向かおう。葡萄色の宝石もポケットに入れて持って行こう。  途中から乗り合い馬車を使えば、まだ午後の式典に間に合う。城の広場が見える高台から、正装したアロの姿を一目見て、旅の無事を祈ろう。  そう決めてしまえば、少し気が楽になった。  ナイフで、箱と蓋の隙間を埋めている蝋を、掻きだす。これだけしっかり保護されていたのならば、中身が雨水で汚れるようなこともなかったはずだ。  格闘の末、ようやく蓋がカタカタと動くようになった。  私は深呼吸ののち、ゆっくりとその蓋を取り外す。 「えっ……これは?」  綺麗に折りたたまれた臙脂色の布が目に入る。  昨日、島から戻るボートの上で、アロはなんと言っていた?月の王族の軍服は臙脂色だったと、確かそう教えてくれたではないか。  その布を広げてみれば、臙脂色の軍服の上着と、臙脂色のスカーフだった。  このタイミングで、私の思い出としてこの軍服が出てきたのは、つまりどういうことなのだろう……。  酷く混乱し、椅子から立ち上がる。部屋の中を意味もなくグルグルと動き回るが、導かれる答えは一つしかないように思われ、なお混乱する。  私はその上着を羽織ってみることにした。着丈はぴったりだが、筋肉量が違うのか少し大きく感じる。そして、スカーフも首に巻いてみた。昨日の朝、アロに結んであげたのと同じように、自分の首に綺麗に結ぶ。  戸口から外へ出て湖畔へ行き、その澄んだ水面を覗き込めば、臙脂色の軍服を着た月の王子らしき男が映っていた。  水面を見ながら考え込む。  私の消えてしまった十年以上前の記憶が、月の王子として過ごした日々だったと仮定しよう。  だとしたら、アロの旅立ちを止めることができるのではないだろうか。  いや、もし月の王子が別に居たのだとしても、この軍服が手元にある以上、月の王子のフリをすることは、できるのだ。  しかし、月の王子はなぜ姿を消したと言っていた?  ヒクイドリと同じで強すぎた。だから諍いを生まないために、彼は自ら自分の存在を消したのだ。それなら、ここで月の王子が皆の前に姿を現わすことは、得策ではない。十年前の彼の思いを無駄にしてしまうことになるのだから。  考えて、考えて、考える。  アロがこの癒し処へやってきた六日前を思い出し、この短い日々の間にどんなことがあって、どんな会話をしたかを反芻する。  考え込んでいるうちに、自分が月の王子だったことを受け入れていた。  違うかもしれない、と逃げを打つ気持ちは消えていた。  眺めていた水面に、ひらひらと木の葉が舞い落ちた。そのタイミングで、妙案が浮かぶ。 「これしかない」  私は、臙脂色の上着とスカーフを身に着けたまま、森の入り口へと走り出した。  一角獣のリムを探さなければ。リムがこの作戦の鍵となるのだから。  リムが森のどの辺りをねぐらにしているのかは、知らない。どうしたら大きな森で暮らす一角獣を見つけられるだろう。  走って、走って、走って。時々立ち止まって「リムーーー」と大声で名を呼ぶ。  手の長い猿は姿を見せたけれど、リムがいる気配はない。  急がなくては。式典が終わればアロが旅立ってしまう。旅立って国を出てしまえば、引き止めるのは難しくなるだろう。  大勢の者が集う式典の場に、どうにか間に合わせたい。 「リムーーー。お願いがあるんだー。姿を見せてくれないかーー」  宝石のある洞窟の近くにも行った。アロが夜の森で蹲っていた場所にも行った。もっと奥まで探しにいくべきだろうか。足を止めずに私は走り続ける。  私の過去が「月の王子」ならば、リムとの縁は、十年以上前から続いていたということなのだろう。  月の王子は一角獣のことを「アロ」と名付け呼んでいたらしい。  それを思い出し今度は「アローーー」と叫んでみる。  そして立ち止まり、一角獣に、森に、大声で語りかける。 「聞いてほしい。どうやら私は月の王族の王子だったようだ。その頃の記憶はなく、今も癒し処の主人のままだが、太陽の王族の第三王子が、遠国に行ってしまうのをどうしても止めたい。彼のことを誰よりも、記憶を失う以前からずっと、愛しているのだから。一角獣アロ、どうか私に力を貸してほしい」  いや、私の過去が月の王子でも、今現在は癒し処の主人ジク。だから一角獣のことは私が名付けた「リム」と呼んだほうが、しっくりくる。 「お願いだ、リムーーー!」  その名を再び叫んだとき、偶然なのか、月の王族の力なのか、風がビューッと吹き抜けた。  私の声が風に乗り森を駆け巡っていく。  少しの静寂ののち、小さな蹄の音が聞こえ、前方の草木が大きく揺れた。  私の目の前に、たてがみの美しい真っ白い一角獣が、悠然と姿を現してくれた。 —  私はリムに全てを託した。  頼み事を話す私の顔を、リムはじっと見つめている。 「そういうわけだが、お願いできるかい?」 「わかった」とでも言うように、立派な角を擦り付けてくる。 「気をつけて」  一角獣は、風のような早さで森を駆け出す。首に結んでやった臙脂色のスカーフがはためいていたが、その姿はあっという間に見えなくなった。 「頼んだよ、リム」  私にできることは、もう何もない。  今から私の歩みで城へ向かっても、式典は終わっているだろう。  癒し処へ戻った私は、臙脂色の上着を脱ぎ、丁寧に畳んで箱の中へ戻した。そしてその上に、アロにもらった葡萄のような紫色の宝石を乗せる。  あとはいつも通りだ。  客室のシーツを替え、洗濯をし、床を箒で掃く。  風呂場の掃除をし、新たに湖の水を汲んで溜める。薪を割って、ランプの油を補充し、豆料理を作るために乾燥した豆を水に浸した。  それはアロが今晩にでもここへ戻ってこられるように、という準備のつもりだった。  夕方近くなって、先に戻ってきたのはリムだった。  一角獣が言葉を持たなくとも、やり遂げてくれたのだと信じられた。 「ご苦労だったね、リム。剣を向けられたりしなかったかい?本当にありがとう」  その首から、臙脂色のスカーフを解いてやる。 「ちょっと待っていて、今、葡萄を持ってくるよ」  私がリムにしてあげられるお礼は、もぎたての葡萄をプレゼントするくらいだったが、彼は美味しそうに食んでくれた。

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