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第34話

清蓮(せいれん)は一通り体をきれいにすると、ぼろぼろの服をまた着た。 森を抜けるまでの数日、清蓮は木の実や小川の水を飲んでは飢えを忍び、集めた木の葉で身を覆い寒さを忍んだ。 いつ追っ手が来るかも分らない、張りつめた緊張感と恐怖は、暗然と清蓮の心の奥底に横たわっていたが、幸いなことに白い鹿に遭遇してから清蓮を追ってくる者はいなかった。 こうして日は過ぎ、清蓮は、やっとの思いで森を抜け、村はずれの丘に出ることができたのである。 清蓮は、見晴らしの良い丘から眼下を見下ろすと、そう遠くないところに小さな集落と、さらにその先には町らきしものも見えた。 「もしかしてあの町は温蘭(おんらん)かな?」 清蓮は、記憶の中にある町の名を口にした。 清蓮は人生のほとんどを宮廷で過ごし、宮廷の外に出たのは数えるほどだった。 その数少ない外出といえば、国王夫妻と妹の名凛と一緒に、夏に離宮のある避暑地で過ごしたり、仙術を学ぶために一時期、とある場所で過ごしたくらいだった。 それは次代の後継者に何かあってはいけないという理由の他に、こんな訳もあった。 清蓮が六つの頃、避暑地で過ごした後、宮廷に帰る途中での出来事だった。 その時清蓮は何を思ったか、川遊びをしたいと言いだしたのだ。 滅多にわがままを言わない清蓮だったが、この時ばかりは言って聞かなかった。 幼い名凛も兄と一緒になって国王夫妻にお願いした。 国王夫妻はどうしてもとせがむ清蓮と名凛に甘くなってしまい、ほんの少しだけならと、川遊びを許した。 それがいけなかった。 清蓮はうっかり足を滑らせ、溺れたのだ。 護衛として付き従っていた剛安(ごうあん)将軍が助けなければ、清蓮は大変なことになっていただろう。 幸い清蓮に怪我はなかったが、肝を冷やした国王夫妻はそれ以来、清蓮に一切の外出を禁じたのである。 自分の不注意とはいえ、宮廷だけの生活を窮屈に感じた清蓮は、ややもすると不貞腐れて部屋に閉じこもってしまった。 そんな清蓮を不憫と見兼ねた国務大臣が、国王に書庫の使用を進言した。 隣国との交易が盛んな友安国は、異国の珍しい品々を所蔵しているが、特に書庫には、貴重な書物が多数納められていた。 国王は国務大臣の進言を喜んで受け入れた。 国務大臣が予想した通り、清蓮は熱心に書庫に通い、異国の書をむさぼり読んだ。 特に清蓮の興味を引いたのは地理について書かれたものであった。 異国はもちろんのこと、国内の地図など飽きることなく眺めては、見たことのない景色や市井の人々の暮らしを想像して一人楽しんだ。 だが、それ以上に関心の高かった仙術に関しては書物を読むだけでは飽き足らず、修練場に行って鍛錬したいと、国王夫妻にことあるごとに国王夫妻に嘆願した。 その熱意は冷めることはなく、自分の思いを筆にしたため、それを毎日国王夫妻に渡していた。 清蓮は国王も若い頃、仙術を学んでいたことを指摘した。 「父上は修練場で仙術を学ばれたのに、なぜ私にその機会を与えてくれないのですか? 修練場で心と体を鍛えたら、私は二度と溺れることもないし、誰かに守ってもらう必要もないでしょう? 剛安将軍のように強くなれたら、怖いものなしでしょう? 」 国王夫は清蓮の最もらしい言葉に苦笑いした。 もしかすると、我が子の熱意と頑固さにほとほと呆れたのかもしれない。  「お前の熱意は分かった……好きにするがよい」 こうして、清蓮は仙術を学ぶために宮廷の外に出ることを許されたのである。 ただ残念なことに、その仙術も修練中に、清蓮が病気になり、目指す頂には辿り着けなかったのであるが。 そんなこともあって、清蓮は以前読んだ書物の記憶から、温蘭という名を導き出したのである。

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