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第3話
これはこの世界の天使なのだろうか。これまで美術館で見てきた、ルネサンス期の宗教画などの天使とはなんだか違う。よく似ていて、愛らしいのは愛らしいのだが、皆、可愛い尻尾があるのだった。
(こんなに豪華な寝台を使っているなんて、リュシアンは第八王子でも大切にされているんだな。国王の寵姫の子なのかな)
そして、毒を盛られたということが気になる。前の世界の歴史では、この時代は毒殺時代だったと言ってもいい。リュシアンは何者かに疎まれ、消されようとしているのか……。
その時、部屋の扉がバタンと開いた。優美な王子らしからぬふるまいだ。
「リュシアン!」
「にいさま!」
二人は寝台の上で、何年ぶりかの再会を果たしたかのように抱擁し合う。ちょっと呆れるが、リュシアンの身体は温かく、抱きしめられた腕の中は心地よい。リュシアンの中の涼星は、鼻の奥がツンと痛くなってしまうのだった。
「イズメイの言うことを聞いて、おとなしくしていたか?」
フレデリックはリュシアンの両頬を手のひらで包み込む。
「はい!」
(嘘ついてるし)
「リュシアンさまは、フレデリックさまのお越しを大変お待ちでございました」
眉も動かさず報告するイズメイ。彼もおそらく、主と同じ十二歳くらいだろう。側近という役どころか。
「さあ、お茶の時間だ。だが、まだいつものようにはいかぬ」
「まだ、ケーキはたべちゃだめなの?」
リュシアンは上目遣いで兄を見る。おねだりしていたが、フレデリックはきっぱりと言った。
「もう少しの我慢だ。私のリュシーならばできるだろう?」
フレデリックは弟の額に、自分のそれをこつんと合わせる。
(うわあ……)
そのとたん、涼星はリュシアンの胸の中に、甘酸っぱくて幸せな感覚が満ちるのを感じた。これはリュシアンの感覚なのか? それとも僕の意識なのか、そう思わずにいられないほどの幸せが広がったのだった。
(僕はこんな感覚を知らない。これはきっとリュシアンのもので……)
添い寝や、頬や額へのキスは言うまでもない。冷たい親戚の保護のもとで育った涼星は、スキンシップによる甘やかな幸せというものを知らなかった。だが今、それを自分のもののように感じたのだ。正直、添い寝やキスは、「なんだよそれ……」という冷めた目で見ていたところがあったのに。
(リュシアンと僕が馴染んできている? シンクロしてきているのかな?)
「にいさま、こつんってやるの、もっと」
リュシアンははしゃいでおねだりしている。
「何度でも。可愛いリュシー」
フレデリックは笑ってリュシアンの黒い前髪をかき上げ、自分の金髪もかき上げて、額を合わせてきた。涼星は喜ぶリュシアンに同化して、幸せを覚える。
(リュシアン……本当にフレデリックを愛しているんだな)
そこへ、おやつが運ばれてきた。水差しと小皿、ミルクとプリンのようなものが銀色の盆に乗っている。
「わあ、ブダマンジェ!」
リュシアンは満面の笑みをみせるが、フレデリックは困ったような、しかし可愛くて仕方ないといった笑顔で答える。
「ブラマンジェだ。まったく、おまえはもうすぐ六歳になろうというのに、まだ正しく言えないのだな」
そう言って、黒い巻き毛をくるくるとかきまぜる。
「だってー」
何がだってなのかわからないが、リュシアンはベッドの上に設えられたテーブルの上に手を伸ばそうとする。フレデリックはその手を両手でぎゅっと握った。
「まだだ。言っただろう? おまえが食するものは、すべて私が口にしてからだ」
「はい。ごめんなさい、にいさま」
リュシアンは神妙に答え、兄がブラマンジェとミルクを毒味するのを待った。これも、今や日常的なものだ。夕食ともなれば、ひと皿ずつ検分するのだから時間がかかる。食事の毒味だけではない、着替えもすべてフレデリックが衣服を検分してからだ。衣類に針が仕込まれているかもしれぬと言うのだ。リュシアンは甘えて、靴までフレデリックに履かせてもらうような状態だ。
「どくみ、いままでみたいにイザベラがすればいいのに」
真剣な顔つきのフレデリックに対し、リュシアンはあどけないものだ。
(十六世紀頃なら、確かに毒味役がいるのはおかしくないけど、フレデリックはなぜ、弟のためにそこまでするんだろう。もしかしたら、自分に害が及ぶことになるのに。この年なら、身体を毒に慣らしているかもしれないけど。それからイザベラ……)
涼星が瀕死のリュシアンに転生した時、彼女はお役目不届きの嫌疑をかけられていた。でも、それだけだ。彼女が毒を仕込んだと疑うのが筋だと思うのだが……。確か、あの時イズメイは彼女を取り調べるように言っていたが、フレデリックは降格と減給のみで収めていた……。
自分の身体のことでもあるし、イザベラのことは気になる。現在、イザベラは何歩か退いたところでリュシアンの世話をしているようだが、幼いリュシアンは彼女に懐いていたような感じも受ける……。
「よし、大丈夫だ」
フレデリックは、銀製であろうスプーンを水で洗い清め、弟に渡す。
「いただきまあす!」
にこにことブラマンジェを食す弟を見ながら、フレデリックは目を細めて紅茶を飲む。彼の紅茶は、イズメイが準備したものだ。
(フレデリックの顔、なんて優しい……)
こんなふうに、誰かに微笑んでほしかった。胸の奥がぎゅっと痛くなり、その痛みはやがて、リュシアンの心に包み込まれる。うれしいなあ、おいしいなあ、にいさまだいすき……。
「にいさま、おひるねのじかんだから、おうた、うたってほしいの。だめ?」
リュシアンは甘えて、席を立とうとしたフレデリックの肘を引っ張った。弟を振り返った時にふぁさっと揺れた金の髪の美しいこと……。
「リュシアンさま、フレデリックさまはお務めがございますので代わりに私が」
ええっ、イズメイが歌うのか? 涼星は驚いた。
普段、昼寝の時間はフレデリックは席を外し、イズメイの見守りのもと、リュシアンはひとりで寝るのだ。いつもは聞き分けているリュシアンなのに、それが今日はもっと甘えたいのだろうか。そう思うと、また涼星の胸に「にいさま、もっとここにいて」というリュシアンの思いが入り込んできた。イズメイの歌を聴いてみたい気はするけれど……。
「ああ、いいとも。可愛いリュシー。イズメイ、私は少々遅れると伝えておいてくれ」
そう言って、フレデリックはブーツを脱ぐ。リュシアンは目を輝かせ、イズメイはため息をついた。
「承知してはおりましたが、まったく、弟君とお務めと、どちらが大切でいらっしゃるのやら」
こういう時のイズメイは十二歳の少年というよりは、もはや中年のちょっと嫌味な男だった。彼が成長したら、いずれ仙人になってしまうのではないか。あ、ここは英国風異世界だから、年老いた魔法使いとか? 杖をついて、長い髭を生やしているような。
「わかっているなら言うな。ほらリュシー、もっとこちらへおいで」
とろけるような笑顔で、フレデリックはリュシアンを抱き寄せる。すると、リュシアンはおとなしく目を閉じた。
変声期前の、ボーイソプラノだった。自分だけに囁くように歌ってくれるフレデリック。リュシアンはもう、うとうとしていた。涼星もまた、心地よい揺りかごに身を委ねるような思いだった。
(なんだろう……この国の子守唄かな……不思議な、言葉やリズム……)
やがて、涼星の意識もリュシアンと一緒に眠りの国へといざなわれていく。フレデリックに愛されていることが心に染みる……。
(リュシアンに転生して、よかったのかも……)
手足を縮め、丸くなって眠るリュシアンの額にキスをして、フレデリックは寝台から降りた。
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