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センセー、嫉妬ですか?

「――発達段階のつまずきは、その後の人格形成に大きな影響を及ぼします」   教授がスライドを指し示す。 (発達段階⋯つまずき⋯⋯)   直はペンを走らせながら、翔太の顔を思い出していた。 「幼児期には『基本的信頼』が育つと言われます。安心して甘えられる環境があるかどうか。 ここでつまずくと、その後も『どうせ俺は』等、否定的な自己像を持ちやすくなるのです」 (⋯⋯翔太が自分を否定するのは、こういうことか)   ノートに小さく書き込む。 「学童期には、自分で身の回りのことをやる習慣が必要です。歯を磨く、顔を洗う、着替える――その繰り返しが『自律性』を育てます。 しかし、もし家庭が放任的で指導がなければ、そのまま大人になっても習慣化が難しいです。これは、だらしなさというより、学ぶ機会を得られなかったのです」 (歯も磨かない、顔も洗わない、服をぐちゃぐちゃで放置⋯⋯翔太のだらしなさって、単なる怠けじゃないのかも) スライドが切り替わる。   「青年期以降、これらの取りこぼしは自己否定や無力感に直結します。ただし――やり直す方法はあります」 (⋯⋯っ!) 「信頼できる他者との関わりの中で、再び“依存”を許されること。依存を経由して、改めて自立を学び直すんです」 直はハッと息をのむ。   (⋯⋯依存。そうか。だからあんなに俺に突っかかるのに、どこか甘えも見えるんだ⋯あれって翔太なりのサインなんだ) 教授は最後にこう言った。   「人は誰しも未熟な部分を抱えています。それをどう育て直すかは、周囲の関わり方にかかっているのです」 ペン先が止まる。   (⋯⋯センセーって言われてるけど、俺はまだ未熟だ。でも、翔太が普通の生活をやり直せるように導いてやれるのは、俺しかいないんだ) チャイムが鳴る。 「では、今日はここまでです。来週もお願いします」 教授がそう言い、講義室を出ていく。 「直ー昼飯食べに行こうぜ」 直の友人、佐伯 理人(さえき りひと)が話しかけてきた。 「うん。理人は今日、食堂?」 「あったりまえだろ?いちいち自分で作ってられるかよ、そんなの女の仕事だろ?」 「それ、時代遅れの考え方だよ?今の時代、男も女も関係なくご飯作るよ」 「そうか?親父がいっつも女の仕事だ〜って喚くから普通だと思ってたわ」 「はぁー⋯その価値観やめないから、女の子にモテないんだよ?この前もフラれてたじゃん⋯」 「うるせぇ!それのせいじゃねーし!あの女が 『理人くんがそんな人だなんて思わなかった』なんて言うからだよ!女なんかに俺のことわかってたまるかっての!!」 「そういうのだからフラれるんだよ⋯」   「ね、ねぇ?鳴神くん⋯」 一人の女の子が、恐る恐る直に話しかける。 直と何度か同じグループになった子だ。 「どうしたの?」 優しく問いかける。 「あ、あのね⋯鳴神くんに、授業でわからないところあったから教えてほしいなって⋯」 顔を赤らめ、ちらちらと直を見ては視線を逸らし、もじもじとしている。 (はぁ?⋯なんで直に話しかけんだよ!俺に話しかけろよ!俺だって成績良いんだぞ!!) 「はぁー⋯やだやだ。女のってのはこういう優男にすぐ顔を赤らめるんだから」 女の子に聞こえない音量でぼそっと言う。 「ちょっと理人、失礼だよ!⋯声掛けてくれてありがとう。でも、ごめんね?俺、これから理人とご飯食べるから⋯また明日ね?」 「あっ、そう⋯なんだ⋯う、ううん。いいの!じゃあまた明日ね」 女の子は遠くにいる友達の元へ、小走りに去っていく。最後までちらちらと振り返り、直を見ていた。 「ふんっ、ざまぁみろ。てめぇーなんかが教育学部の王子様を狙うとか身の程知らずめ」 「理人!そういう言い方やめなって!」 「へいへい⋯」 行儀悪く耳を指でほじりながら、不貞腐れたように言う。 「何度も言うけど!そういう言い方が、モテないんだからね!モテたいなら女の子には優しくしないと愛想つかされるんだよ!」 「はぁ?なんで俺が女に優しくしないといけないんだよ⋯あーあ、誰か俺に一目惚れしましたって言ってくれるやついねーかなー」 「努力もしないやつが願ったて無駄だと思うよ⋯」 「言ってろ!⋯⋯それよか、早く食堂行こうぜ。腹減った」 「もう⋯しょうがないな。わかったよ」 席を立ち、食堂への道へと向かう。 「今日、お前弁当?」 「うん。今日はオムライス作ってきた。一口食べる?」 「ふーん⋯お前のは美味いから食べてもいいぞ」 「へー⋯女の子が作ってないよ?男の料理だよ?」 「お前は別にいいんだよ、友達だから!親父はそんなもんって言うだろうけど俺がルールだし!」 「そういうところ女の子に見せたら、可愛げあるって思われるのに⋯」 「見せるかよ、そんな軟弱なところ。男はどしっと構えておくもんだろ!男が可愛いなんて破廉恥だ!」 「⋯⋯今どき珍しいぐらいの男尊女卑だなぁ。大丈夫だって、男が可愛いは全然ありだから!俺が身をもって保証する!!」 「はぁ?」 「実はさ、同居人の男の子ができたんだけど⋯それが可愛くて、可愛くて!!一人じゃ顔も洗わないし、歯も磨かなくてさ、俺無しじゃ生きていけないんじゃって思うほど生活能力ゼロなんだけど、それがまた可愛くて⋯⋯」 「ま、待て待て!お前そんなキャラだったか?⋯てか、同居人って⋯小学生でも預かってんのか?」 「ううん、同い年」 「お、同い年!?歯も磨けないやつが!?⋯そんでそれが可愛いとか正気か!」 「失敬な。正気だよ」 「そうか⋯お前、暑さで頭やられたんだな⋯」 直を可哀想な目で理人は見る。 「あっ!そんな目で俺を見るなよ!」 「見たくもなるだろ⋯王子様がホモとか女の夢ぶち壊しだろ」 「⋯⋯その王子様ってやめない?恥ずかしい」 「ぴったりじゃん!皆、言ってるからいいだろ?」 「やめろって、恥ずかしい!」 「ふんっ!いい気味だ!⋯おっ、着いた」 そうこう話しているうちに、どうやら食堂に着いたらしい。 昼時のため、学生たちで溢れかえっている。 「直ー。俺買ってくるから席取っといて」 「わかったよ」 理人と別れ、席を探す。 どこもかしこも人で溢れ、空いている席がない。 (んー⋯困ったな⋯あっ) 視線の先には、席に座り、友達数人と騒いでいる翔太の姿があった。 (なんだ⋯友達いるじゃん) 胸をほっと撫で下ろし、安心する。 けれど、次の瞬間ひどく胸がチクリと傷んだ。 (なんでだろ?⋯安心したはずなのに) 胸に手を当て、もう一度翔太を見る。 けれど、視線は自分でも気づかないうちに友人たちへと向けられていた。   (⋯⋯嗚呼、わかった。これが俗に言う嫉妬か) 直にとって、生まれて初めて胸を刺すような痛みだった。

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