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第6話 貴方の隣
夜の駅前は、人の流れが絶えない。
それなのに、背筋の奥に微かな寒気があった。
何度も確かめた。
振り返っても、誰もいない。
けれど、確かに“視線”を感じる。
——まただ。
総は歩くスピードを上げた。
視線を振り切るように。
けれど、改札を抜けた先、
薄明るい街灯の下に金髪が見えた。
彩芽はそこに立っていた。
まるで最初から、総の足がそこに向かうことを分かっていたかのように。
「こんばんは、総さん」
いつもの丁寧な声。
だがその奥に、狂おしいほどの“確信”がある。
「……彩芽くん、これ以上は困る」
「困らせたくて来てるんです、だって俺の事忘れられなくなるでしょ」
即答だった。
心臓が早く鳴る。
声を荒げようとしても、総は詰まって声が出なかった。
「俺、別に脅すつもりとかじゃないです。
ただ、見てないと落ち着かない。
あなたが〝生きてる〟って確認したいだけなんです」
それは優しさの形をした呪いだった。
総は一歩下がった。
それでも、彩芽は同じだけ近づいてくる。
距離が常に、一定に保たれている。
「……やめてくれ」
「やめられません」
その言葉は柔らかいのに、総の逃げ場を奪う。
まるで抱きしめられているような圧。
総は息を飲み、視線を逸らした。
そのとき、すぐ後ろから声がした。
「……秋田課長?」
玲奈だった。
書類を抱えたまま、立ち尽くしている。
黒と紫の視線が、同時に彼女を見た。
時間が止まる。
玲奈の瞳の奥に、わずかな恐れと混乱。
そして、その裏にある“確信”。
「……その人、誰ですか」
総は答えられなかった。
言葉を探すよりも早く、彩芽が微笑んだ。
「俺、総さんの知り合いなんです。
少し話があって。
ごめんなさい、邪魔でしたか?」
丁寧な声。
だけど、玲奈の背筋が明らかに震えた。
笑顔の奥にある何かを感じ取ったのだろう。
総はその場の空気を切り裂くように言った。
「もう帰れ、彩芽くん」
初めて彩芽に言う、強い口調だった。
彩芽の目が一瞬見開かれ、
次に、ゆっくりと笑みに変わった。
「……わかりました」
低く、穏やかに。
そう言って背を向けた金髪が、
街灯の光を滑るように遠ざかっていく。
玲奈は沈黙したまま、しばらく総を見つめていた。
彼女の瞳の奥に映るのは、“心配”でも“疑問”でもない。
——“恐怖”だった。
「課長……あの人、本当に知り合いですか?」
「……昔からの、読者です」
言ってから、自分でも違和感を覚えた。
読者——そんな言葉では説明できない。
あの青年は、きっともう俺の中に住みついている。
玲奈が小さく息を呑み、言った。
「……気をつけてください。あの人危ないと思います。」
その夜、
総は眠れなかった。
目を閉じても、
あの黒い瞳が少し悲しそうな目をして暗闇の中で光っていた。
静かに、甘く、そして恐ろしく。
————
夜風が頬を打った。
歩き出した足が、どこに向かっているのか分からない。
「帰れ」
その言葉が、耳の奥に何度も響いた。
あんな声、初めて聞いた。
冷たくて、突き放すようで、
それでいて――震えていた。
総さんの声が震える理由を、
俺はもう知っている。
“怖い”と“好き”が混ざった時、人はあんな声になる。
街灯の下を通るたび、影が揺れる。
黒く伸びた自分の影が、まるで別の誰かみたいに見えた。
喉が渇く。
体の芯が熱く、冷たい。
両方が混ざって、呼吸がうまくできない。
彩芽は、コンビニの前で立ち止まり、
ガラスに映る自分を見た。
濡れた金髪。
黒い瞳。
頬に張りついた雨粒が、まるで涙みたいで気持ち悪い。
「……俺、嫌われた?」
小さく呟いて笑う。
笑いながら、胸が痛む。
でも、痛みよりも先に、 “どうすればいいか”が頭をよぎった。
——離れられないように、縛ればいい。
その考えが、まるで自然な結論のように浮かんだ。
ポケットから携帯を取り出す。
総の番号を開く。
送らないと分かっているのに、指が震える。
『総さん。
俺、今日、あなたの目を見て確信しました。
あなたも、俺のことが怖いくらいに忘れられないんですね。』
送信ボタンを押しかけて、やめる。
画面を閉じて、息を吐く。
「……まだ、ダメだ」
焦りは禁物。
焦ると、逃げられる。
俺はあの人を“失うために”生きてきたんじゃない。
救われた命を、今度は俺が救うために使うんだ。
そして、救う方法なんてひとつしかない。
——俺の世界に閉じ込める。
その瞬間、胸の奥の痛みがすっと消えた。
まるで開いた傷口を縫い合わせたみたいに。
代わりに、静かな安堵がやってきた。
ポケットの中のハンカチを握りしめる。
あの日、総さんがくれたもの。
冷たくて、やさしくて、俺を生かした布。
「……俺の番だよ、総さん」
闇の中で呟いた声は、
誰の耳にも届かずに消えていった。
けれど確かに、あの夜、
高崎彩芽という青年の中で何かが完全に壊れた。
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