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第9話 もう来るな

カーテンの隙間から、淡い光が差し込んでいた。  窓の外では、朝の街が静かに動き始めている。  車の音、鳥の声、人の気配――  世界は何事もなかったように、今日を始めていた。  けれど、この部屋の中だけが違う。  呼吸の仕方さえ、もう昨日とは違うように感じた。  総は、目を覚ました。  シーツの上、隣には静かに眠る彩芽。  金色の髪が頬にかかり、  穏やかな寝顔をしていた。  その顔を見た瞬間、  胸の奥がきしむように痛んだ。  ——やってしまった。  頭の奥でその言葉が何度も繰り返される。  何度も「夢だった」と思いたかった。  けれど、肌に残る熱の感触が下半身の重さが、それを許さない。  彩芽の指が、総の手を探すように触れた。  寝ぼけたまま、指先を絡めてくる。  その無防備さが、総の心をさらに締めつけた。  「……彩芽くん」  かすれた声で名を呼ぶと、  彩芽はうっすらと目を開けた。  黒い瞳が、朝の光に溶ける。  その視線が、まっすぐに総を射抜いた。  「おはようございます、総さん」  その言葉が、まるで永遠の約束のように響いた。  総は答えられなかった。  唇が動かない。  昨夜、自分が何をしてしまったのか、  理解した瞬間に声を失っていた。  彩芽は、そんな総の表情を見て、  微笑んだ。  「大丈夫ですよ。全部わかってますから。」  その声が、やけに優しかった。  まるで、慰めるように。  けれどその優しさが、総には恐ろしかった。  “わかっている”という言葉の裏に、  彩芽の執着が隠されているのかを、  総は本能的に察していた。  「……あれは、間違いだった」  震える声で、ようやく言葉を絞り出す。  彩芽は少しだけ目を伏せて、  小さく笑った。  「いいえ。俺にとっては、正しかったです。」  その言葉は静かで、残酷だった。  総は何も言えず、ただ立ち上がった。  シャワーの音が、静かな部屋に響く。  水音の向こうで、彩芽はゆっくりとベッドに仰向けになった。  天井を見つめながら、  胸の奥で小さく笑う。  ——俺は、やっと手に入れたんだ。  ——この世界の中心が、ようやく俺のものになった。  指先がシーツを握りしめる。  その感触が、昨夜の余韻を確かに蘇らせた。  目を閉じる。  まだ総の声が耳に残っている。  “やめろ”  “怖い”  それでも、最後には名前を呼んだ。  その一言だけで、  彩芽の中ではすべてが正当化されていた。  「もう離さない」  囁く声は、朝の光の中で溶けていった。 —— 朝の通勤電車。  ガラス越しに映る自分の顔を見て、  総は息を吐いた。  どこにでもいるサラリーマンの顔。  スーツの襟を整え、ネクタイを締め直す。  外見だけは、いつも通りを演じられる。  けれど、胸の奥ではまだ、  昨夜の熱が微かに残っていた。  思い出したくなくても、  脳裏に浮かぶのはあの声。  ――“俺、もう我慢できそうにない”。  耳の奥に、彩芽の囁きが焼き付いている。  シャワーを浴びても、  仕事の書類に没頭しても、  その声は消えてくれなかった。  会社に着くと、玲奈がデスクの前で立っていた。  「おはようございます、秋田課長」  柔らかな声。  いつもの挨拶なのに、どこか探るような目をしていた。  「……おはよう」  短く返すと、彼女は微かに首を傾げた。  「顔色、悪いですよ。昨日、徹夜でも?」  「いや……ちょっと寝不足なだけだ」  寝不足、という言葉の裏に、  違う理由があることを、玲奈は勘づいていた。  「無理しないでくださいね」  心配そうに微笑む。  その笑みが、妙に胸に刺さった。  優しい人だ。  もし出会う順番が違えば、  自分は彼女を好きになっていたかもしれない。  だが、その可能性はもう――ない。 ⸻  昼休み、オフィスを出た瞬間。  スマホが震えた。  画面には「彩芽」の名前。  “昼、近くにいます。食べませんか?”  息が止まる。  “近くにいます”という言葉の重さが怖かった。  どうして自分の勤務先を知っているのか、  考えるまでもなく、背筋が冷える。  返信を打とうとする指が止まる。  「会わない」  そう書いて、結局送れなかった。  しばらくして、  オフィスの入り口に現れた姿に、  総は凍りついた。  金髪に黒い瞳。  どこか軽やかな笑みを浮かべた青年。  高崎彩芽。  手には紙袋を提げていた。  「差し入れです。秋田さん、甘いの好きでしたよね?」  その声に、周囲の社員が振り向く。  玲奈もその一人だった。  「……え、彼·····」  玲奈は、驚きで言葉が詰まり、総も一瞬言葉を失った。  彩芽は笑みを崩さず、  まるで“恋人”のような距離で答えた。  「ええ、昔からの知人なんです。   いつもお世話になってるので。」  彩芽の笑顔に、総は背中が冷たくなるのを感じた。  彩芽は総の反応を見ながら、わずかに目を細めた。 ⸻  帰り道。  総は携帯を見つめながら歩いていた。  彩芽からのメッセージが続く。  『怒ってますか?』  『会いたかっただけです。』  『……総さん、俺のこと、嫌いになりました?』  最後の一文で、  総の足が止まった。  夜風が冷たい。  胸の奥の罪悪感が、  またゆっくりと疼き出す。  嫌いになれるなら、どれほど楽だっただろう。  “嫌いじゃない”。  そう打ちかけて、結局メッセージを消す。  送信欄には、ただ一言だけ残った。  『もう、来るな。』  送信。  その小さな音が、夜の静寂を裂いた。

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