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第10話 あなたの本心

総からのメッセージの通知音が鳴った瞬間、  胸の奥が跳ねた。  “もう、 来るな。”  画面に映るその一文を、  彩芽は何度も、何度も読み返した。  文字の間に空白がある。  その空白が、息をしているように見えた。  “来るな”  ――でも、本当に拒絶しているなら、  こんなに迷いのある言葉を使うはずがない。  “来るな”の中には、  “待っている”が隠れている。  彩芽はそう信じた。  いや、信じないと壊れてしまいそうだった。 ⸻  夜、街の灯が沈む頃。  彩芽は静かにアパートの部屋を出た。  手には、総が好きだったコーヒーと、  小さな包みを持って。  足取りは軽い。  だけど、その軽さの奥には、  得体の知れない焦燥があった。  ——拒まれてもいい。  ——ただ、目の前で息をしていることを確かめたい。  エレベーターの前で、指先が冷たくなる。  総の部屋の階数ボタンを押す。  数字がひとつ、またひとつ光を落としていく。  そのたびに、心臓が打つ。  “やめろ”と“行け”が頭の中で同時に叫んでいた。 ⸻  ドアの前。  ノックをする前に、耳を澄ませた。  中から、微かな物音。  テレビの音ではない。  ページをめくる、静かな音。  ——起きてる。  彩芽は深く息を吸って、  インターフォンにそっと指を触れた。  ピンポーン。  呼び鈴の音が、  夜の静寂を破った。  しばらくして、  中から足音が近づく。  チェーンの外れる音。  ドアが少しだけ開く。  その隙間から、紫の瞳が覗いた。  「……どうして来た」  低く、掠れた声。  彩芽は微笑んだ。  「来るな、って言われたからです」  その言葉に、総の眉が僅かに動く。  「意味、わかって言ってるのか」  「ええ。あなたが本気で“来るな”と言うなら、寝言で俺の名前を呼ばなかったはずです。   あの夜、呼んでくれたでしょう?彩芽って」  総は言葉を失った。  彩芽の視線は、まっすぐに彼を見ていた。  「……あれは、間違いだ」  「じゃあ、今ここで俺を拒めますか?」  沈黙。  互いの呼吸だけが、狭い玄関に溶けた。  総の喉が震えた。  けれど、言葉は出てこない。  彩芽は、わずかに前に出た。  ドアの隙間から伸びた指が、  総の頬に触れそうで、触れない距離に止まる。  「……触れたら壊れるって、知ってます。   でも、もう壊れてますよ、俺もあなたも。」  その囁きは、  涙のように柔らかく、  ナイフのように鋭かった。  ドアがゆっくりと閉まる。  総は何も言わず、その背を見つめていた。  閉じた扉の向こうで、  彩芽は小さく笑った。  ——あなたの本音、俺ちゃんと聞こえましたよ。  ——  ドアが閉まった瞬間、  部屋の空気が変わった。  彩芽の視線が、まっすぐ総に突き刺さる。  その瞳の奥に、怒りも悲しみも、そして愛もあった。  だがそれは、どれも形を失って混ざり合っている。  「総さん。……俺の事嫌いになりましたか?」  穏やかな声だった。  けれど、笑っていない。  総はゆっくりと首を振る。  「……嫌ってはいない。でも――」  「でも?」  「少し、距離を置くべきだ」  彩芽の笑顔が、音もなく崩れた。  「距離って、なんですか?」  「お互いのためだ」  「お互い、ですか……」  小さく呟き、彩芽は一歩近づく。  床が軋む音が、妙に大きく響いた。  「俺のために距離を取るって言うけど、   それ、俺にとって“死ね”って言葉と同じですよ」  その瞬間、背筋が冷えた。  「彩芽――」  「俺ね、総さん。   あなたがいないと、生きてる意味がないんです。   小学生の頃から、ずっと。   あなたの言葉だけが俺の救いだった」  声が震えている。  怒っているわけでも、脅しているわけでもない。  それが余計に怖かった。  彩芽が机の端に手を置く。  距離は、わずかに一歩分。  「誰かに、何か言われたんですか?」  「……お前には関係ない」  「ありますよ。   あなたの事で俺に関係ないことなんて、もうこの世界にないですから」  総が息を呑む間もなく、  彩芽の手が伸びてきた。  手首を掴まれる。  力は強くなかった。  けれど、その指の温度が、火のように熱い。  「放せ」  「放したら、総さんを二度と掴めない気がして」  「彩芽――」  「……ねえ、総さん。   俺のこと、怖いですか?」  問いの声が、子供のように小さかった。  総は言葉に詰まる。  「怖いなら、それでもいいです。   怖がってもいい。   でも、俺から離れないでください」  その言葉は、懇願のようで、呪いのようだった。 ⸻  静寂の中、  外のビル風の音がかすかに響く。  その一瞬、総は本能的に思った。  ――逃げたい。  でも、逃げたら彩芽は壊れる。  逃げなければ、自分が壊れる。  どちらも、等しく恐ろしかった。  彩芽の手が離れる。  代わりに、そっと総の頬に触れた。  「……震えてますね」  「お前が、怖いんだ」  「そうですか。   でも、俺は嬉しい。   ちゃんと、俺を“感じてる”ってことだから」  唇が近づく。  総は反射的に目を閉じた。  触れるか、触れないかの距離で、  彩芽が囁いた。  「逃げたら、追いますよ。   死んでも、見つけます。」  その声に、背筋が凍った。  次の瞬間、彩芽はふっと笑い、  手を離してドアへ向かう。  「……今日は帰ります。   総さんが本気で俺を拒めるかどうか、   見たかっただけです。」  ドアが閉まる。  総は、立ったまま息を吐いた。  心臓が痛いほど鳴っていた。  ――これは、もう“恋”じゃない。  そう思った瞬間、  胸の奥で、かすかに何かが砕ける音がした。

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