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第11話 心の距離
夜風が頬を撫でる。
駅前の街灯が滲んで見えた。
胸の奥で、まだ総の体温が残っている気がする。
あの人の声。
あの人の震え。
そして――拒絶の言葉。
“距離を置こう”。
その瞬間、彩芽の世界は静かに割れた。
けれど、涙は出なかった。
泣くよりも先に、
彼の指先の温度を思い出してしまったからだ。
⸻
喫煙所の前、
誰もいないベンチに腰を下ろす。
ポケットの中には、
あの日総からもらった冷たいハンカチ。
もう何年も前のことなのに、
その感触だけが生々しく残っている。
「……総さん。俺、あの時決めたんですよ」
口の中で呟く。
「誰にもあなたを傷つけさせない。
たとえ、あなた自身でも」
喉の奥が熱くなる。
言葉を吐くたびに、
胸の奥で狂おしいほどの痛みが広がっていく。
「愛って、何なんでしょうね」
自分に問いかけるように、
彩芽は笑った。
「痛いのに、離れたくない。
壊れるのに、守りたい。
あなたが逃げるほど、俺はあなたの中にいたくなる。」
街を行き交う人々の笑い声が、
どこか遠くに聞こえた。
彩芽の世界は、もう総だけで満ちている。
誰の声も、風も、他人の顔も、
全部モノクロにしか見えなかった。
⸻
駅前のスクリーンに映るニュースの中で、
総の名前がふと流れる。
過去の特集映像――
“天才小説家・秋田総、引退から10年”
その言葉に、彩芽の喉が詰まった。
テレビの中の総は、まだ若く、眩しかった。
あの時、自分を救ってくれた“言葉”の人。
「……総さん」
画面の中の笑顔に、そっと囁く。
「世界が、あなたを傷つけても。俺はあなたを傷つけません」
⸻
風が吹く。
街灯の下で、彩芽は目を閉じた。
心の奥で、総の声が反響する。
――嫌ってはいない。
――でも、距離を置くべきだ。
その言葉が、甘く、毒のように沁みる。
「距離、ねぇ……。
じゃあ、どれだけ離れたら“お互いのため”になるんですか?」
小さく笑って、
彩芽はスマホを取り出した。
画面の中に、
総の写真が一枚だけ保存されている。
会社の新年会のとき、
偶然撮った集合写真。
総が笑っている。
その隣に、自分の手が写っている。
“隣にいる”ただそれだけで、
世界が完璧に見えた一枚。
指でその画像をなぞる。
「あなたの幸せの中に、俺がいないなんて、
そんな世界、いらない。」
低く、穏やかな声でそう言って、
スマホの画面を消した。
月が、淡く滲んでいた。
夜の風が、静かに背中を押す。
――明日、会いに行こう。
たとえ、拒まれても。
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